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はるかなるフォートラダデール――井上輝伸

 
 
 浜辺に人だかりができ、ホイッスルの音がかすかに聞こえる。海にのんびりと浮かんでいたTと私は、どうやら自分たちを呼んでいるようだ、と海岸に向かった。ライフガードの若者が近づいてきて、“Sharks!!” と叫んだ。この一言に、Tと私の顔は引きつったにちがいなかった。それまで、私たちは何度も沖合に出ては、ぷかぷかと漂いながら、建ち並ぶしゃれたホテル群を眺めて泳ぎを楽しんでいた。おそらく、岸からは100メートル以上離れていたことだろう。彼が指差したボードには「30フィート(約9メートル)先には泳ぎ出るな」とあった。理由はサメに襲われないためである。1968年、フォートラダデールでのある日の出来事。
 
 フロリダ州フォートラダデール(Fort Lauderdale)は、マイアミから北に40キロほどにある保養地で、1960年に封切られた青春映画 “Where Boys Are” の舞台となり、コニー・フランシスの同名のヒット曲とともに一躍全米にその名を知られることとなった。北の州からイースターの休暇でやってきた女子学生たちが出会う様々な男性との出会いと結末は、当時の変わりゆくアメリカの大学生の性のモラル、青春の性行動(sexuality)を浮き彫りにした。この映画をきっかけに、毎年イースターには、全米各地から学生たちが大挙してフォートラダデールにやってくることとなった。
 
 “Volunteers To America” ――それが私たちの参加していたプログラムの正式名称だった。米国国務省と文部省(当時)の間で取り交わされたもので、私を含めた20代の男女10名が選ばれ、6名は地域のコミュニティーセンターに、4名は学校に配属となった。名称の通り、アメリカで、ボランティア活動に従事するのが目的だったが、Tと私は6名の仲間だった。1961年、米国政府は、Peace Corps(平和部隊)を立ち上げ、3年後の1964年には、その国内版であるVISTA(Volunteers In Service To America)を創設した。Volunteers To Americaは、いわばVISTAの“外国人版”だった。日本をはじめ韓国、アルゼンチン、コロンビア、ブラジルなど14カ国からの若者が参加した。VISTAは、War On Poverty(貧困との戦い)をスローガンに掲げている。
 

 
 私たち6名は、アトランタ郊外で約1か月、トレーニングを受けた。講義では、大学教授らからアメリカ社会の成り立ち、貧困の現状、VISTAの活動などについて学び、一方の実践では、国籍の異なる者同士ペアを組んで、アトランタ市内の貧しい家庭で2週間のホームステイをしたのである。その後、私たちはそれぞれの「任地」に向かった。フォートラダデールでは、はじめ、私とホンジュラスから来たCが、そしてTとはブラジルのNがルームメートだった。しかし、約2週間後、Nはノイローゼ気味となり、急きょ帰国してしまい、一方、私とCとの共同生活も、ささいなことからギクシャクし出した。スタッフに相談し、結局Cは単独で、私とTはペアを組んで活動することになった。Tは大学を3月に卒業したばかりの空手4段の猛者だった。
 
 ある日、Tと私は、近くの小学校で日本事情を紹介したいと思い立ち、市の教育委員会に出向いた。対応してくれた2人の男性に、滞在の趣旨を話し、活動の手始めに、地図などを用いて日本事情を子どもたちに紹介したい、と申し出た。するとすぐに、近くの小学校の校長に電話をかけて、交渉してくれた。驚いたことに、その場で即OKが出た。さすがはアメリカ、と感心した。翌日、私たちは、久々にネクタイを締めて、校長室に向かった。その日から、Tと私は、即席の先生となり、次々と、クラスを訪問しては、日本の紹介を始めた。ある4年生のクラスでは、一通り話し終わって、何か質問は、というと、一斉に手が挙がる。Do you have cars in Japan? といったたわいない質問に交じって、「日本は共産主義の国か?」という意外なものもあった。理由はすぐにわかった。教室に持ち込んだ地図では、日本は赤く塗られていた。日本人が英語を話すのが珍しいらしく、どのクラスでも、どこで英語を習ったのだ、と聞かれたのを覚えている。
 
 黒人社会では、情報は子どもたちを通してあっという間に広がる。夕方、近くの店にビールを買いに行くと、道端でたむろしている黒人たちに呼び止められることがしばしばあった。当時、まだ、ベトナム戦争は終結していなかった。“Hey, Charlie, come here.” と何度も声をかけられた。Charlieとは、ベトナム人のことである。側によって話し始めると、俺はこいつを知っているぞ、息子の学校で教えているジャパニーズだ、となり、怪しいものでないことが明らかになる。その場を離れるときには、Take it easy.(がんばれよ)の声が飛び交った。
 
 Tはやがて、黒人地区のYMCAで空手教室を開いた。ある日、突きの練習をしているときに、こんなことがあった。「イチ、ニ、サン、シ…」とTが号令をかけて「ロク」まで来た時、十数人いた生徒たちは、一斉に構えを解いてTを見つめたのだった。一瞬、戸惑ったTだったが、すぐにそのわけがわかった。「ロク」の号令が、Look! に聞こえたのだった。「ちがう、ちがう、そうじゃないってば、こっちを見て」――そんな風に彼らには聞こえたのだろう。思わぬ単語の発音が似通っているため、起きたハプニング。
 
 ずっと後になって、映画Jawsを見たときサメの恐ろしさを身に沁みて感じた。あのとき、もしライフガードの若者に注意されていなかったら、どうなっていたかと思うと恐ろしい。若気の至りとは、こんなときに使う表現かもしれない。
 
 任期を終えた後、17万円也で購入したダッジ・ダート64年型で、ニューヨークからロサンゼルスまで単独横断の旅に出た。さまざまなハプニングに巡り合う、まさにexciting journeyであった。機会があれば、またご紹介したいと思う。
 
 
 
【プロフィール】 井上 輝伸(いのうえ てるのぶ)
青山学院大学文学部英米文学科卒。1968年~69年、Volunteers To Americaプログラムに参加。1973年より、都立高校で英語を教える。趣味は、陶芸観賞、旅行、野菜作り。
『オーレックス英和辞典』では校閲を、『コアレックス英和辞典』では文化コラムを担当。

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