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英語のオシゴトと私 第1回 ―野村恵造
He who can, does. He who cannot, teaches.

2018年4月16日|英語のオシゴトと私

 ああ耳が痛い。劇作家ジョージ・バーナード・ショーの寸鉄だ。「能ある者は自ら行う。能なき者は人に説く」。英語に当てはめると、「英語ができる人は、それを使ってバリバリ活躍する。できない人は、先生になる」!
 だが、教師も実際にやってみると気楽な稼業ではない。特に昨今は、大学もご多分に漏れず、教育・研究以外の仕事が半端ではない。スケジュール帳は会議の予定で埋まり、報告書や申請書の締め切りに追いかけられる。毎日がただただ忙しい。 

 もちろん、やりがいもある。例えば、ゼミの飲み会で学生と話していると、一丁前に自説を披歴する教え子の言葉の中に、野村印の言い回しを見出すことがある。心の中で「しめしめ」と思う。他人様の思考に影響を与えることができた証だ。「これは野村先生に教えてもらった」などと覚えていて欲しいわけではない。私だって習った先生の受け売りが多い。知識の伝授とはそういうことだ。
 卒論に取り掛かるゼミ生たちにこんな説法をする。「大学の4年間は、本当ならもう働ける年齢なのに、知的に遊びなさい、といって与えられた時間であり、卒論はその成果です。考えて、考えて、考えた後に、『わかった!』と思える瞬間があります。何が分かった? それは真理かもしれないし、人間かもしれない。その知的興奮を味わって卒業して行って下さい」。そして、まさにその「わかった!」の瞬間に、運よく立ち会えることがある。それこそ教師冥利に尽きるというものだ。近頃流行の「学生による授業評価アンケート」は、「いかに面白く、分かりやすく教えてくれるか」を問うが、甘くて咀嚼不要の離乳食ばかり与えられていては、「わかった!」という知的興奮を味わうことはできまい。
 留学の手伝いをした学生が一回り大きくなって帰ってくるのを見るのも、また嬉しい。前任校で20年ぶりに突然、研究室を訪ねてくれた女子学生がいた。米国の大学に転学し、やがて便りも途絶えたが、そのまま研究者となって彼の地で活躍しているとの由。すっかりオバサンになって、一瞬誰か分からなかったが、向こうもすっかりオジサンになった私に戸惑ったに違いない。英語を講ずる者にとっての一番の醍醐味は、そんなふうに学生の視界を外に向かって広げてやれることだろうか。自分が教えた英語を武器に活躍する教え子の姿を想像するだけで愉快ではないか。

 こう書きながら、自分が教師に向いているのか、実はいまだに自信がない。当時は文科系の大学院を出ると大学の教師になるのが当たり前の時代だったので、進路には悩まなかった。教職に就いてからも、迷い多き俗物ゆえ、「オニの野村」にも「ホトケの野村」にもなり切れていない。
 でも、一つだけ大切にしていることがある。それは、教師としての思いだ。永年、辞書や教科書の仕事に携わっているが、どんな時も自分が教師であることを忘れずにきた。辞書学や英語教育学の専門家でもない私が提供できるのは、幾ばくかの英語の知識と専門の英語学の知見、そして何よりも、教師である自分自身だ。教師として、これからの日本の英語学習者にはこういうことが必要だという思いがまずあり、それを縁あって関わることになった辞書や教科書の編集を通じて実現しようと努めてきたつもりだ。
 先日、教職志望の学生たちに話をする機会があった。最後は「教師は大変だけれども、やりがいのある仕事です。私自身、教師であったこの人生に悔いはありません。是非、挑戦して下さい」と締めくくった。「ただ、次の人生もやりたいかと聞かれたら、次は別の仕事でもいいかとは思いますが」。そんな時でもオチを付けないと気が済まないのは、関西人の性か。

野村先生

【プロフィール】野村 恵造(のむら・けいぞう)
『オーレックス英和辞典』『オーレックス和英辞典』『コアレックス英和辞典』編者。東京女子大学教授。専門は英語学。
辞書や検定教科書などの編集を通じて、理論的な研究の成果を英語教育に還元する方法を模索している。
The Japan News に“A Window on English” のコラムを連載中。

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