英語のオシゴトと私

英語のオシゴトと私 第22回―ファーみちわ
英語(のお仕事)と私

2021年9月14日|英語のオシゴトと私

 私の英語のお仕事は高校の英語教員だけれど、そこから始めた話は、いつのまにか「学校の仕事」に変わって、つい愚痴になり、かといって、前向きさを加味しようとするとまるっきり担任のHRトークになってしまう。職業病かな。直接は見知らない人々に向けて、たぶんかなり私的になってしまう文章を書くのは難しいなぁと今さら後悔しつつ、「英語と私」の雑な話を連ねてみる。

 アメリカ出身の夫と暮らしていると、「家では英語? ペラペラね」などと言われることがあるが、夫婦の会話なんて、日々の生活の決まったパタンばかりだから、一緒に暮らしているだけで「ペラペラ」には決してならない。強いて言えば、母語じゃなくてもめげずに口論できる度胸がついたくらいだろう。

 それでも、一度は離れた教職に戻ってみようと思えたり、以来かれこれ十数年、「英語の仕事」へのモティベーションをそこそこ維持できているのは、この少々ユルい「英語の生活」のおかげだと思う。

 もともとホームステイ経験もなく、根はシャイだからすれ違う外国人とお友達になるようなこともできず、特に英文学好きでもなかった私は、自分の生徒・学生時代の英語の「学習経験」を元にした授業を一通りやってみてしまうと、次に授業をブラッシュアップするための、自分自身の新しい英語経験を追加できなくて、困ってしまった。

 ところが、思いがけず日常に「英語をつかう生活」をするようになって、「ああ、こういう語彙こそ必要だぁ」とか、「あの構文、ほんとに使うんだ」とか。再び学習者目線で、英語に新鮮な発見ができるようになった。

 そして、オットはネイティブなのに、ときどきスペルがアヤシかったり、自分の親しんだ英語以外の訛りはさっぱり聞き取れなかったりするし、私は漢字の成り立ちを聞かれるたびに、イライラしながら漢和辞典を開いたりして、言語がらみの失敗や笑い話をそれぞれ更新している。そのたびに、母語でも外国語でも言語習得の道は常に厳しいのだ、と生徒のヘタる気持ちや、わかりたい気持ちに共感している。

 さらに、単語の意味も文法構成もわかるのに、その現場や背景知識がないと結局チンプンカンプンだということも、エンジニアのオットのために、何かの装置のマニュアルを訳したりするときに、多大なストレスを伴って実感する。逆に、お互いに意思伝達ツールとしての言語がおぼつかなくても、話題にしたい世界に精通していれば、片言と身振りで必要なことを理解し合えるし、なんならココロも通じてしまう場面も、オットと日本人技師さんたちとのやりとりのなかで目撃してきた。雑学とか教養とかの面白みや、人とつながるココロみたいなものを、どうやって生徒に伝えたらいいのか、いつまでたっても手探りだ。

 とかなんとか。つまり、「言語で伝わる、つながる」経験を自分でもできるようになって、「英語の仕事」のモティベーション補給になっているという話。だったら最初の職場でもできたのでは、と反省するけど、仕事に直結する研修や勉強会とはちがう、仕事を離れたインプットが、カリカリしないモティべーションに繋がるのかなと思う。

 こんなふうに書きながら、実は最近、「英語の仕事」がそのまま「英語の生活」になりそうだな、という気配も、何かと過渡期の学校現場に漂っていることに気がついた。タブレットで一瞬で集められる生徒のリアクションには、一人を指名して得られるものとは別ものの発見があるし、興味深いアクティビティや探究タイプのプログラムを提供してくれそうな団体からは毎日のようにセミナー案内が届く。一人の授業でできることではないし、足元を確かめながら歩を進めたい、とワクワクとビクビクが入り混じる今日この頃だが、こんな刺激が、そのまま仕事のモティベーションになることは素直に認めたい。

 もちろん、我が家の英語の生活と平和はこれからも大切にしようと改めて思う。

 今回、図らずも身のまわりをふり返って、つたない文章を書くことになったけれど、そういえば、このバトンを渡してくださった文教大学の渡辺先生とは「ふり返り」の研究がきっかけだった。いろんなご縁に、改めて感謝して…。

 

【プロフィール】ファー みちわ(Fir Michiwa)

大学卒業後、民間企業勤めを経て、名古屋の私立高校へ。離職後、長野に移り、公立高校3校目に勤務中。

英語のオシゴトと私 第21回―奥住桂
言葉で人を動かす仕事

2021年7月9日|英語のオシゴトと私

 人を振り向かせるのって、面白い。

 

 だから大学4年生の私は、広告代理店や制作会社に就職して、コピーライターやCMプランナーになることを夢見ていました。当時は今と違って、大学4年生になってから本格的な就職活動を始めるのが一般的でしたので、私も友人たちと同じように様々な企業に資料請求のハガキやエントリーシートを出しながら、ある日ふと気づいたのです。あれ? 業界最大手D社の一次試験の日、私は「教育実習」真っ只中じゃないか?

 

 外国語学部英語学科で学んでいた私が教職課程を履修していたのは今から考えれば中学校で英語教師をしていた父の影響かも知れません。でも当時の私はそれを「ホケン」だと言い、周囲には「絶対に教員にはならない」と言いふらしていました。だから私がD社の一次試験を諦め、教育実習に行ったことを意外に感じた人は多かったかも知れません。自分でも不思議でした。

 

 教育実習中は、授業の内容を考え、配布するワークシートを作成するのがとにかく楽しかったです。塾でアルバイトをしていたので人前で話すことには慣れていて、黒板の前で説明するのにさほど苦労しませんでした。一方で、指示を出して生徒を動かすのはとにかく難しい! そして、自分が「英語のユーザー」としてあまりにも未熟であることを思い知った2週間でした。

 

 教育実習から戻ると、なんとなく就職活動の波は先に進んでいて、実際夏以降には採用活動を終わらせる企業もあって、私は完全に蚊帳の外でした。あれ? なんかおかしいぞ? こんなはずじゃなかった。私は、何をやればいいんだろう? 私は、何になればいいんだろう?

 

 あ、英語を教えるのもいいかも知れない。

 

 たぶん、あまりこの2つを重ねて語る人はいないのではないかと思いますが、当時私にとっては「広告」と「教育」はとても似ている営みでした。商品(英語)に関心のない人たち(生徒)をどうやって振り向かせ、手にとってもらうか。配ったチラシ(ワークシート等)を捨てられないようにするにはどんな工夫をすればいいか。「お試し」を通して、その面白さや便利さを感じてもらうためには、どんな体験を用意すればいいか。そうやって、人の心を動かすためにあれやこれやと考え、モノを作り、提供することが、「広告」にも「教育」にも重要なのだろう、と感じていました。

 

 ただ、広告制作を仕事にしたら、時には自分がいいと思っていない商品でも、「素晴らしいものだ」と感じてもらえるように努力することが求められます。それが仕事だから当然なのですが、果たして私にそれができるだろうか、と疑問に思いました。私が教育実習中にあれだけ夢中になって試行錯誤ができたのは、「外国語」としての英語という商品のよさを、本気で生徒たちに伝えたいと思っていたからじゃないだろうか、と。

 

 それなら、自分の納得の行く商品を売りたい。外国語というツールを身につけることの面白さを本気で「広告」する仕事をしたい。よく考えたら、広告制作会社ではデザインやコピーは分業で別々の人の仕事になりますが、教師は企画から、デザインから、ステージ上のパフォーマンスから、全部1人でできる。なんでもやりたがりの欲張りな私にはぴったりじゃないか。心が決まりました。

 

 とはいえ準備もなしに教員採用試験に受かるはずもなく、就職先未定のまま大学を卒業し、教育委員会からの突然の電話で臨時的任用教員としての日々が始まることになるのですが、そのへんの顛末などは、編著者をさせていただいた『成長する英語教師をめざして』(ひつじ書房)に綴られていますので、機会がありましたらご笑覧いただけたら嬉しいです。

 

 学校教員としての日々は相当にハードで、時に「ブラック」とも言われてしまうレベルですが、あの時D社に就職していても忙しさは変わらなかっただろうなと思うので、結果としてどちらにしても忙しいなら、「納得のいく商品を売ることができた」ことに喜びを感じています。(ちなみに思い出はどんどん都合よく補正されるので、私の中では勝手に「D社を蹴った」ことになっています)

 

 今は縁あって都内の私立大学で教職課程の授業を担当しています。教師になる夢を持って努力を続けている学生を支援するのはもちろん、当時の私のように「なんとなく」教職を取っている学生がいたとしたら、今度はそんな学生たちを振り向かせ、伝えたいんです。

 

 人を振り向かせるって、面白いよ、って。

 

 

【プロフィール】奥住 桂(おくずみ けい)

千葉県野田市生まれ。幼稚園の頃の夢は大工。教員となって放課後に壊れた机を修繕していて叶う。

小学校の頃の夢は漫画家。2020年度より大修館書店『英語教育』誌で2コマ漫画を連載させてもらい実現。

大学時代の夢は、パフォーマーとして人を笑わせること。教壇に立ち中学生に「笑われて」いたのは夢が叶ったと言ってよいものか悩むところ。

埼玉県の公立中学校で英語科教諭として21年間奉職後、2019年より帝京大学教育学部講師。主な共編著・分担執筆に『英語教師は楽しい―迷い始めたあなたのための教師の語り』(ひつじ書房)、『成長する英語教師をめざして―新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』(ひつじ書房)、『英語授業ハンドブック 中学校編 DVD付』(大修館)など。

 

英語のオシゴトと私 第20回―渡辺敦子
教師の英語? 大学生の英語?

2021年5月20日|英語のオシゴトと私

 英語のオシゴトと私を考えたところ、当たり前のことかもしれませんが、必要とされている英語の知識、また使用する英語もずいぶん異なるという、若かりし頃の体験が思い起こされました。

 私は高校生の時に1年間アメリカに留学し、大学で再びアメリカに渡りました。アメリカの大学を卒業後に帰国した時は、日常会話においては日本語より英語の方が楽であるように感じていました。英語を教える機会に恵まれ、英会話学校、専門学校、大学で英語を教え始めました。しかし、英語を話すのが楽だから簡単に教えられたということはなく、教えるためにまた英語を学びなおしました。
 具体的には、アメリカ生活ではほとんど使わなかったwhom、そして直接話法と間接話法、to不定詞の名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法等です。留学中は、構文という概念とは関係なく英語を使用していたので、英語を見る視点が変わり、興味深い体験でした。

 また教師になって気づいたのが、学生の時に使っていた英語と教師が使う英語は異なるということです。当時、同僚と英語で話していて、相手の反応が予期しないものだったことが何回かありました。
 例えば、学生の時は、疑問文にするのが面倒なので、相手に対する問いを疑問文、付加疑問文にせずに“right?”を文末につけて使っていました。“This is the way I need to do it, right?”などのように。しかし、この表現を使用したある時(話の核心に大きく関わっていたのですが)、“Don’t right me.(そういう言い方しないでよ)”と言われて驚いたことがあります。“right?”は少し砕けた若者言葉だと捉えられたのでしょう。
 また、“Good luck!”ではこんな経験があります。学生の時には「がんばって」という意味で、例えばテストを受ける前の友人などによく使っていました。ある時、オーストラリアから日本に来たばかりの先生に、「がんばって」というつもりで“Good luck!”を使いましたが、“I don’t need luck.”と言われました。このような返答をされたことはなく、少し驚きました。その先生は“I don’t need luck.”で「僕には実力があるから運は必要ないよ」という意味合いで冗談のように使っていたのかと思います。“Good luck!”という表現には「頑張って」以外にも文字通り「幸運を祈っています」という意味合いから場合によっては「相手には幸運が必要である」という少し上から目線な表現として捉えられる可能性もあるのだろうとその時に思いました。“I hope things will go well for you.”などの方が無難だったのかもしれません。このやりとりは特定な状況で特定の個人間でのことなので、Good luck!を使わない方がよいということではありません。同じ表現でも文脈・相手によって意味合いが変わってくるということです。

 このような経験から、私は他者の反応に非常に敏感になり、そして教師としてどういう英語を使うべきかに、特に注意を払うようになりました。
 アメリカで大学生だった時は毎日のように使っていたけれども、英語の教師になってからは、同僚には使わなくなった表現がいくつかあります。
 Awesome! (すごい!)
 Bogus! (ひどい!)
 wicked(すばらしい)
 bad(1987年にリリースされたマイケル・ジャクソンのアルバムBADのように「かっこいい」という意味でのbadです)
 It was a blast! (とても楽しかった!)
 I am psyched! (すっごく楽しみで興奮している!)
 I freaked out! (パニクっちゃった!)
 これらの表現は、少し砕けすぎていると自分でも思ったのでしょう。

 その後、英語のオシゴトを30年ほど続け、今では以前よりは知識もつき、使うべき言葉もわかってきたように思います。英語の教師になるには英語が話せるだけでは務まらないということを、今さらながらに感じています。

 

【プロフィール】渡辺 敦子(わたなべ・あつこ)


文教大学文学部英米語英米文学科教授。コロンビア大学大学院にてTESOL(英語教授法)修士号取得。ロンドン大学(Institute of Education, University of London)にて博士号取得。専門分野はふり返り(reflective practice)による教員養成。代表的な著書は『リフレクティブ・プラクティス入門』(ひつじ書房)、『Reflective Practice as Professional Development: Experiences of Teachers in Japan 』(Multilingual Matters)など。

英語のオシゴトと私 第19回―真島由朱
語学とコンピュータと、教えるという仕事と

2021年3月22日|英語のオシゴトと私

 おもしろい。おもしろい。それは単純に、おもしろい。
 私を今まで動かしてきたものは結局、その感覚に尽きる。

 

 さて、初見では誰もが決して読めない私の名前「由朱(ゆうあ)」。この漢字自体に意味はなく、画数が11画だ、というのがポイントだ(妹がひとりいるが、彼女の名前もまた11画)。つまり私の両親は姓名判断派で、11画・・・その画数に込められた子どもへの望みは「早く自立すること」だった。
 自立、すなわち「自分で金を稼げる人間になる」こと。そこで選んだ「手に職」、それが「語学」だったわけである。金がないから塾や予備校は一切なし、進学は国公立大学しかアカン、自宅から通える範囲で・・・と親に厳命され、選べた候補はただ一つ。大阪は箕面の山奥にある、「大阪外国語大学」である。十いくつある専攻言語から、私が選んだのは・・・英語、ではなく、ドイツ語だった。「なんかかっこいい気がした」と、当時18歳であった本人は主張していた。

 

 ドイツ語を学ぶのはおもしろかった。英語と最も近しい兄弟言語。語彙の多くはその根をひとつにしているが、文法ではいろいろな違いがある。「国語と英語の点数がいいから、とりあえず文系行くか」的な捉え方しかしていなかった高校時代から、大学に入って私は初めて「語学」の楽しさを知ったのだ。せっかく外国語大学に入ったのだからと、ドイツ語だけではなくイタリア語やフランス語、ロシア語など色々手を出してみた。

 

 違う文字、異なる文法。色とりどりのルール、そして文化。
 おもしろい。おもしろい。それは単純に、おもしろい。

 

 大学に入ってコンピュータ室が自由に使えるようになったのも大きかった。インターネットに自由に触れることができるようになったのだ。英語やドイツ語のサイトが簡単に見られる。遠い遠い国の人々が書いたモノをスクリーン上で読めるのだ、それも瞬時に! 今でこそみんなスマートフォンを持ち歩くのが当たり前な時代なわけだが、当時やっとガラケーを手に入れたレベルの私にとって、まさにそれは情報革命のようなものだった。

 

 ネットワークで繋がる。別の国にいる相手にメール。自分で好きなようにウェブサイトを作る。
 おもしろい。おもしろい。それは単純に、おもしろい。

 

 だがしかし、語学とコンピュータでおもしろがっていた私の楽しい生活は無情にも叩き潰される時が来た、あの地獄のような就職氷河期という化け物に。就職先なく大学を卒業した私は行き場を失い、見事ニートとなった。世を儚みすっかりやさぐれ、一時期は匿名掲示板に張り付いて時間を溶かす荒んだ生活をしていたものの、なんとかコンビニバイトを見つけフリーターへとジョブチェンジした。
 そんな時だった。大学の所属ゼミの先生が高校講師の口を紹介してくださったのだ。渡りに船とばかりにそれに飛びつき、私は「高校の先生」になった。

 

 初めての勤務校での経験は、辛いことも多かったが、とても考えさせられるものだった。就職も進学もしないまま卒業する生徒も多く、「何で英語なんてせなアカンのや、俺んち貧乏やから海外なんて一生行かれへんで」と言う生徒たちを前にして、私はどうやって英語を教えたらいいか、自分なりに懸命に考えた。研究会や学会に行き、方法を学ぼうとした。
 だって、語学を学ぶことは、おもしろいことなのだから。

 

 私は生徒にも知ってほしかった。母語とは違う言葉を、それを学ぶことによって拡がる世界を、「違う」ものがある、「違う」ものを知る、そのおもしろさを。
 また、どのように語学を教えるか、を考えること自体もおもしろいことだった。当然苦しい時やうまく行かなくて凹む時もある。
 けれども、生徒が「わかった!」と言ってうれしそうな顔を見せてくれた時。その時こそが、この職務で何より素晴らしい瞬間。

 

 そして今私がおもしろがっているものは、この新型コロナ禍で皮肉にも一挙に拡がったオンライン授業・・・中でもGoogle社のG suite for Educationをどう学校生活に使うか。Google for Education認定トレーナーの資格も取り、さらに知識を深めていくつもりだ。
 勤務校にG suite for Educationが入ってまだ半年を越えたくらいだが、すでに様々な面で利活用されている。授業でのグループワークや文書作成はもちろん、LHRでの諸連絡やアンケート実施。修学旅行の事前・事後学習や総合的な学習をGoogleスライドなどを使って行うなど、今まではできなかったおもしろいことがたくさんできるようになってきた。
 そしてその活動は電子データとして蓄積され、生徒たちの学習や学校生活に役立っていく。もっと環境が整備され、もっと皆で使い込んでいけば、きっと授業も行事も学校生活も、さらにさらに愉快になっていくだろう。

 

 おもしろい。おもしろい。それは単純に、おもしろい。
 私を今まで動かしてきたものは結局、その感覚に尽きる。

 

 これからも、私は英語科教諭として、おもしろがっていく。
 語学とコンピュータと、教えるという仕事を。

 

【プロフィール】真島 由朱(ましま・ゆうあ)
人間を始めて今年で40周年。ホモ・サピエンスをやっていくには適性がやや低いらしく、まだちょっと足取りがおぼつかない中堅教員。大阪外国語大学外国語学部地域文化学科ドイツ語科卒業。氷河期時代の就職戦線に敗れ、ニート・フリーター→そこから常勤・非常勤講師を経て(アホなので何回も教員採用試験にすべった)教諭に。
現在の勤務校は大阪府立箕面高等学校。2021年2月よりGoogle for Education Certified Trainer(認定トレーナー)になり、なおさらインターネットとICT技術を使った授業運営などに前のめりになっている。

英語のオシゴトと私 第18回―村上裕美
素敵な外国の方々との出会い

2021年1月20日|英語のオシゴトと私

 大学で英語および英語教育を指導させていただく今の私にとって、振り返ってみると、幼少期の体験が原点となっています。
 私が初めて外国語として英語に接する機会を得たのは、幼稚園の時でした。ベルギー人の神父様が知人の家から我が家にいらっしゃることになり、私が知人の家から自宅に着くまでご案内したときのことを、今も鮮明に記憶しています。自宅につくまでの分かれ道や曲がり角のたびに、神父様が私の顔を優しい笑顔で見つめてくださり、進む方向を指で訪ねてくださる。その時に、指で示して答えると、“Oh, good girl.” や “Left?”,“Right!”,“This way?” などと繰り返し言って、コミュニケーションをとってくださいました。その声の調子や、温かい眼差しから、違う言葉でも理解してもらえること、なんだかわからないけれど、褒めていただいていることを全身で感じた日となりました。神父様の繰り返し発しておられた言葉が耳に残り、その日以来、神父様の英語のフレーズを反復して口にしていたそうです。このささやかな経験が、英語という言葉が私にとり身近で、ある種の自己肯定感を持つことができる言葉となりました。
 中学校の3年間は、姉妹都市交流でアメリカから日本に留学中の方と家族ぐるみの交流があり、私の茶道や華道のお稽古にお連れして、拙いながら通訳したり様々な場所に出かけていたことから、私にとって、英語は学習対象ではなく、言葉が異なる方と交流できる大切な言語として位置付けられていました。高校の3年間は、毎週土曜日に、日本赤十字社大阪支部主催のLanguage Schoolでアメリカ人講師による、発音指導はもとより、英語漬けのオーラル指導やディベートなど、通常の高校での英語学習では受けられない英語教育を受けることができました。この時のアメリカ人講師の先生の指導法や教育への情熱、このあとの私の人生に大きな影響を与えることになります。大学生になると、Language Schoolで受けた教育を活かし、社会貢献する活動として日本赤十字社大阪支部の語学奉仕団に参加しました。通訳ガイド班に所属し、主にツアーガイドを行い、多くの国々の方々と交流させていただく機会を得ました。このころから、大学卒業後の進路を考え、通訳や外国語を使うことが求められる外資系企業への就職も考えていました。しかし、大学4年生の教育実習の経験が私の進路を大きく変えるきっかけとなりました。
 高校での教育実習の期間、参観させていただく英語の授業で机に伏して寝る人が多く、興味関心が持てない気持ちを全身で表わす人があまりに多かったことに衝撃を受けました。私は、英語を学ぶことが大好きだったことから、その反対側の人の気持ちに初めて向き合う機会になりました。一人でも英語嫌いの人をなくしたいと願う気持ちがむくむくと湧き上がり、Language Schoolで出会った生涯の恩師のような指導がしたいと願うようになりました。大学院に進学と同時に、ご縁をいただき、公立高校と私立高校にて英語非常勤講師を3年間務めさせていただく中で、自分にできることの小ささを痛感するとともに、教員の育成が重要であると痛感しました。大学院を修了後、現職の関西外国語大学にて教壇に立たせていただき、様々な種類の授業を担当させていただきながら、まず自分が、学習者のニーズに応え、学びがいのある授業を提供できるよう、日々努力しています。また、英語教員育成の任においては、英語学習の楽しさや異文化理解の楽しさを指導できる教員の育成に励んでいます。
 英語が大好きで、英語を使うことが生活の一部になっていた時には、思いもしなかった英語教師というお仕事につかせていただいていることを、感慨深く思うと同時に、大好きな英語に関われる喜びを噛み締めています。そして、教育実習の際に決意した思いをしっかり胸に刻みながら、次代を担う英語教員育成という責任を遂行できるよう努力しています。ベルギー人神父様との出会いから始まった英語とのわり。そのような素敵な出会いを生徒・児童の皆さんにも経験してもらいたい、そして英語への関心を持ち続けてもらいたいと願っています。

 


【プロフィール】村上 裕美(むらかみ・ひろみ)
関西外国語大学短期大学部英米語学科准教授。大谷女子大学大学院文学研究科英語学英米文学専攻博士後期課程修了(単位修得修了、文学修士)。2011年熊本学園大学大学院国際文化研究専攻博士後期課程修了(単位修得終了)。専門は、文体論および英語授業学研究。2006年~2015年日本リメディアル教育学会関西支部長。代表的な著書としては、『学びのデザインノート:MH式ポートフォリオ 大学英語学習者用』(単著、ナカニシヤ出版、2012)、『大学教員のためのFD手帳:MH式ポートフォリオ 大学教員用』(ナカニシヤ出版、2013)、『英語授業学研究の最前線 JACET応用言語学研究シリーズ1』(ひつじ書房、2020)など。

英語のオシゴトと私 第17回―丸山大樹
ぼくはただ、おいしいラーメンが食べたいだけなんだ

2020年10月26日|英語のオシゴトと私

 自分は英語教員になるべきではなかった。この職に就いてもうすぐ20年になろうとしている今でもよくそう思う。
 親が教員だったせいか、何となく自分は教員になるものだと思っていた。特に勉強熱心でもなかったし、周囲からの人望があったわけでもなかったのに、ただ、何となく。案の定、大学の教職課程では、担当の先生に「君みたいな人がなぜ教員になろうとするのか理解できない」と言われ、教育実習の研究授業では、「こんなひどい授業は初めて見た」と言われた。でも当時は、若かった。少しだけ落ち込みもしたが、そのうちなんとかなると思っていた。
 大学を卒業後、母校で非正規の講師として働きはじめた。生徒たちは皆優しかったので、面と向かって厳しい評価を聞いたりはしなかったが、自分自身はよくわかっていた、この授業ではダメだ。教育実習で酷評された授業と、そう変わらない授業を毎日繰り広げていた。ラーメンは放っておけばのびるが、英語教員は放っておいても伸びなかった。そして当時(2000年代初頭)は、様々な面で学校に「余裕」が残っている頃で、同僚には「別に講師がいなくても学校は回るけどね」と軽く言われたし、インターネット上には「教員がつらいなら辞めればいい。代わりはいくらでもいる」という声が散見された。
 最初の2年は何回か辞めてしまおうかとも思った。しかし、曲がりなりにもプロになった以上、そして、結婚をして新たな家族が増えたこともあって、なんとかしなければならないと思い、とにかく勉強をすることにした。TOEICや英検など英語の資格試験も何度か受けて、人様から文句を言われない程度の点数も取った(その節は旺文社の参考書に大変お世話になりました)。また、授業を少しでも良くしようと、専門書や実践家のブログを読み漁り、授業理念やテクニックを学んだ。
 しかし、勉強すればするほど、英語と授業は奥が深く、上には上がいることを思い知った。全国には、英語でも授業でも「怪物」のようなすごい人がたくさんいることがわかった。その中の1人が、松井孝志さんだ。松井さんの圧倒的な英語力に裏打ちされた緻密な授業実践は、例えるなら材料一つ一つにこだわる職人が作った塩ラーメンのようだ。おいしいラーメンがあれば食べに行ってみたいと思うように、松井さんに会ってみたいと思ったことは自然な流れだった。東京で行われたセミナーで松井さんから直接ライティングの指導を受けた。その後、松井さんが主催した「山口県英語教育フォーラム」に2回参加し、この原稿の執筆を紹介していただいた好村直子さんともお会いした(好村さんとは2019年末に開かれた松井先生の文字指導セミナーで数年ぶりに再会し、一緒に激辛ラーメンを食べに行った)。
 他にも、英語教育学会や大学の先生や企業が企画する勉強会にも参加した。また、何年か前には自分も県内の研究会のまとめ役になった。素晴らしい授業実践や英語教師たちに出会うことを10年ほど繰り返し、顔は広くなったが、やはり授業はそんなに上手くならないし、英語もできるようになったとは全く思わない。
 それでも時々、「英語の授業が楽しみです」とか、「先生のおかげで英語が苦手じゃなくなりました」とか(気を遣って)言ってくれる生徒がいて、たまらない。「授業をやるのが難しいです。怖いです」と言う若手教員に、「大丈夫、俺も20年経ってもそうだから」と何が大丈夫か全くわからないアドバイスしかできない中堅教員だが、これからもきっと退職まで、授業と英語を恐れ(畏れ)ながら、勉強し続けるのだと思う。
 何人もの仲間が、現場を去った。教員を取り巻く状況は、以前とは比べ物にならないくらい厳しい(上からもいろんなものが降ってくる)。自分が良い教員だと思える日は来なくても、いないよりはマシだということに確固たる自信を持って、おいしいラーメンを食べながら頑張っていきたい。

 

 

【プロフィール】丸山 大樹(まるやま・ひろき)
1979年長野県大町市生まれ、飯山市育ち、雪国のやつはだいたい友達。中央大学文学部英米文学専攻で八王子ラーメンの研究に没頭し、卒業後、長野県立高校英語科教員として飯山照丘高校、飯山北高校、阿南高校に赴任し県内のラーメンを食べ歩く。2016年から飯山高校勤務。昨年度は夏の野球部甲子園出場で泣き、3月の卒業式でクラスを送り出して泣き、この4月からは教務主任という罰ゲームを課せられ毎日泣いている。でも、気の良い生徒や保護者の皆様、愉快な同僚に囲まれ、涙の数だけ強くなれるよ。長野県教育文化会議外国語研究会会長、新英語教育研究会長野県事務局長。

英語のオシゴトと私 第16回―工藤泰三
色覚異常が英語教師になるきっかけに…?

2020年9月7日|英語のオシゴトと私

 「お前は色弱だから理系は無理だ」・・・これは私が高校3年生の時にミシン屋兼電気屋の父から言われた言葉です。この言葉がなければ、今ごろ私は英語教育には携わっていなかったかもしれません。
 私が将来の職業として教職を意識し始めたのは16歳のころでした。小さいころはプロ野球選手、小学校中学年あたりではなぜか印刷業、中学で吹奏楽を始めてからはテューバ吹き、高校でバンドを始めてからはベーシストなど、いろいろな「将来の自分」を想像しながら高2の夏を迎えました。
 その時ふと思い出したのが、中学のころ友人と定期試験前によくやっていた勉強会です。比較的成績の良かった私はいつも指導役になり、父の店の事務所に集まった友人たちとともに夜遅くまで(時には朝まで)勉強していました。成果がどれほどあったのかはよくわかりません(どちらかというと、単にみんなで集まって遅くまでワチャワチャやるのが楽しかったのでしょう)が、教えることで自分自身の理解を確認することができましたし、試験が終わった後に友人から「助かったよ、ありがとう」なんて言われると「あ、そう?」なんてそっけない振りをしながら内心喜んだりしていました。
 その思い出に導かれるように教職を目指すことにした私でしたが、問題なのは「どの教科の教員になるか」ということでした。当時の私はバンド活動にうつつを抜かしっぱなしだったので、成績も超低空飛行、得意な科目などありません。志望する教科は高3になってから考えることとし、とりあえず高3は文系の日本史選択にし、あわせて自由選択で地学を履修することにしました。地学を選択したのは、国立大学受験には理科のいずれかの科目を共通一次試験で選択する必要があり、私の高校では地学だけが高3の授業で全範囲をカバーしてくれる理科科目だったから、という切羽詰まった理由からでした。ところがこの地学、勉強しだすと面白くて面白くて、いくら学んでいても全く苦痛に感じることはありませんでした。模試の成績も地学だけは全国トップレベル(と言っても受験者数はいつも他科目に比べ圧倒的に少なかったですが)になり、調子に乗った私は「よし、地学の教員を目指そう」と決心し、両親にもそう伝えたのでした。
 ・・・そこで返ってきたのが冒頭の父の台詞です。今でこそ色覚異常で職業適性を判断することはほとんどないでしょうが、当時はまだ学校の健康診断でもしっかり色覚検査をしていた時代で、色覚は今よりも重視されていました。電気回路に使う抵抗器も表面に塗られた色の組み合わせで抵抗値を表示しているし、地学分野でも星の色によってその表面温度を判断するなど、理系の分野では確かに色覚は文系の諸分野より大事なのかもしれません。私は半ばポカーンとしながらようやく「あ、そ、そうか・・・」と返事をしたのを覚えています。
 その後私は、きわめて粛々と、模試の成績が地学に次いで良かった英語の教師を目指すことを選択し、教育学部の中学校教員養成課程英語専攻に進みました。英語の教師になった人の多くはきっと、英語の魅力や面白さに惹かれてその道を選ばれたことと思いますが、そんなわけで私はそれには当てはまらないタイプの英語教師なのです。ときどき「こんな私が英語を教えるような仕事をしていていいものだろうか」と疑問に感じることもありますが、英語という言語を単に「かっこいい」とか「おしゃれ」とかという目で見ることなく若干の距離を置いて見られる点、「英語は苦手/嫌い」という生徒・学生に対し英語の道具的有用性を超えた視点で英語の学習意義を語れる点などは、かえって利点なのかもしれません。
 そんな私が最近研究の中心に据えているのが内容言語統合型学習(Content and Language Integrated Learning: CLIL)です。英語と地球的課題(global issues)を絡めて扱い、生徒・学生の高次思考を高めながら地球市民意識を涵養することをねらいとした授業実践を行っています。やはりどうやら私は、英語そのものを対象とした学習(教授)よりも、地学のように学際的要素を持った学習(教授)の方が好きなようです。

 

【プロフィール】工藤 泰三(くどう・たいぞう)
桜丘中学・高等学校(東京)英語科教諭、筑波大学附属坂戸高等学校外国語科教諭を経て、現在は名古屋学院大学国際文化学部准教授。横浜国立大学教育学部卒業、Saint Michael’s College MATESL Program修了。日本CLIL教育学会(J-CLIL)西日本支部副支部長、外国語教育メディア学会(LET)中部支部事務局長などを務める。

英語のオシゴトと私 第15回―好村直子
子供の世界を歩む

2020年7月14日|英語のオシゴトと私

 そぼ降る雨が連想される梅雨ですが、今年は豪雨と晴天を繰り返し、足早に夏へと季節を進めているように感じられます。休校中に植えたアサガオが教室のベランダに花を添えています。そして、お世話になった方々や友人の暮らしを気に留めながら、少しずつ日常を取り戻しています。

 松井孝志先生からエッセイのお話をいただいたのは、休校のまま3学期の修了式を迎えた3月でした。まだ県内ではCOVID-19の感染者が確認されていないものの、ニュースサイトで他国の状況を知るたびに、世界の形はどうなっていくのかと、心が恐怖で満たされていた頃でした。リレー記事のそうそうたる執筆陣に、場違いではないかとの思いもありましたが、「いろいろなバックグラウンドで英語教育に携わっている人がいることを知ってもらいたい」とのお言葉に、お受けすることにしました。リレー記事のバトンだけでなく、松井先生から教わったことが、日々子供たちと向き合う私の中に生き、同僚へ伝播していると言っても過言ではありません。それに、2014年に初めてお会いしてからというもの、松井先生には英語そのものから、教師としての姿勢に至るまで、多くの教えをいただいています。中でも昨年末に受講した、文字指導・handwriting指導法セミナーで得たことは、今年度の私の柱となっています。

 大学卒業後に高校で英語教師として13年間勤めた後、ご縁があり、現在はイマージョン教育を取り入れている小学校に勤務しています。児童は、English、Math(4年生まで算数の授業時数の半分を英語で行っています)、Art、P.E.を英語で学習しており、私はイマージョン科目には補助教員として関わっています。

 勤めて仕事に少しずつ慣れてきた頃、「高校生と比べて小学生はどうか」と同僚から尋ねられることがあり、興味の対象や学習姿勢が異なることを熱っぽく語ったのを今でも覚えています。ある児童が鹿の絵を描き、その説明を英語でしようとした時に、それがdeerではないと訴えてきたのです。彼が求めていた語はmoose。ヘラジカの角のカッコよさを伝えたかったのです。死刑制度や税制度、環境問題について語ることはないけれど、彼らには語りたい彼らの世界があり、そしてそのために必要な語を私がそんなに持ち合わせていないことに気づいた瞬間でした。それからというもの、児童用のリーディング教材を読むことを習慣にしています。
 また、2年生から英語日記を書かせていますが、4月から6月の終わりまで、“I like ….”の文を毎週3文ずつ書き続けた女の子がいました。担当教員とどうしたものかと、彼女のノートを前に指導法について話し合いを重ねているうちに7月になり、彼女が嬉しそうに持ってきたノートには、“I went to ….”と書かれていたのです。それからは毎週やったことや行った場所、食べたものについて書き続け、5年生になった現在も日記に日々の出来事や感じたことを綴っています。英語で書く自信を子供が持てるまで、焦らずに待つ姿勢が大切だと身をもって学びました。

 今年度は初めて1年生の担任となり、子供たちの「やりたい!知りたい!学びたい!」気持ちが満ちあふれた教室で、奮闘しています。まさに文字指導の入り口です。松井先生の文字指導のセミナーで学んだことは、国語の指導にも生きています。鉛筆の持ち方、書く時の姿勢、書き始め、とめ、はらいなど、一つひとつのステップを一緒に確認していきます。小さな手で鉛筆をぎゅっと握って力を入れすぎてしまう子には、指の置き場が分かりやすい鉛筆を用意したり、文字を絵のように認識してしまう子には、書き順やどの部分をどの場所に書くかを番号で示したりといった個々の配慮が欠かせません。そして、英語の文字指導でも、ひらがなの学習と同じように、子供たちに見せるフォントを揃え、絵と音と文字を繋げていきます。6月半ば現在、Jolly Phonicsのグループ1“s, a, t, i, p, n”を終えたところですが、絵を見てそれが表す語を言うことができても、文字を読んで発音するには十分な時間が必要だと感じています。

 マスクと消毒とソーシャル・ディスタンスが合言葉になっていますが、世界の形が変わっていく中で、音を束ね、言葉を束ねて学んでいく子供たちとの日々の暮らしを、より鮮やかに色づけられるように、努力を重ねていきたいと考えています。

 

 

【プロフィール】好村 直子(よしむら・なおこ)

岡山県在住。私立高校教諭を経て、現在は就実小学校教諭。趣味は旅行、ミュージカル・演劇・映画・音楽鑑賞ですが、最近では何をするにも難しいので、スパイスカレー作りを始めました。

英語のオシゴトと私 第14回―弘山貞夫
ハムとマザーグースと“コソリティ”

2020年5月26日|英語のオシゴトと私

 浅野享三先生からバトンを受け継ぎました。愛知県の公立高校で再任用を含め40年以上教壇に立ち、定年後は10年間高専で英語多読授業を主に担当し、この3月教師生活にピリオドを打ちました。浅野先生とは、Readers Theatre (音読劇)を英語教育に生かしてゆこうと、ネット上の研究グループを立ち上げ、ご一緒に活動をしています。
 前置きとして、私と英語との個人史を少し記します。小学校5年生の時、アマチュア無線技士(通称:ハム)の資格を取得。高校時代は送受信機だけでなく、テレビアンテナのお化けのような八木アンテナも自作し、 “Hello, hello, CQ!”と海外のハムとの交信に明け暮れていました。将来は世界航路の船に乗り、通信士を夢見ていましたが、理数系の成績がガタ落ち。唯一の救いだった英語を生かすしかないと、外国語学部へ進むことになりました。松本享のラジオ英会話、國弘正雄のトークショーなどを熱心に視聴したことが、現在の自分を作ってくれたと感謝しています。
 大学では、mentorと呼べる恩師との出会いがあり、語学的文体論を専攻しました。プラーグ学派の機能言語学、アメリカのNew Rhetoricsなどを学ぶ機会にも恵まれました。師が私たち学生を叱咤激励する口癖が今も耳に残っています。「まずは語感を持って読んだり書いたりを目指せ。次に実感を持って読み書けるように。そして究極は、霊感、インスピレーションを持って読み書きできる境地に達せよ。」そこでニヤッとされ、「だが尺貫法はもう古いし、五貫、十貫、と言ってもわからないだろう。ましてやレイカンは、ゼロ貫だから、それを期待するのはとうてい無理かな。」とも。
 さて、40歳に差し掛かる頃、マザーグースの魅力に取り憑かれ、授業にも取り入れたり、せっせと日英語の絵本、翻訳本、研究書、CD、ビデオ、グッズなどを買い漁りました。その数は千点余り。小さなMother Goose Museumが開けそうです。一番興味を惹かれたのは、英米の雑誌・新聞にマザーグースの一節が何気なく引用されている点です。特に見出しなどに効果的に使われ、大人から子供まで英語文化圏の共有文化財になっています。「マザーグースを知らずして、英語教育を語るなかれ」と自戒した次第です。マザーグース研究家の藤野紀男氏(十文字学園女子大学名誉教授)と一緒に、「マザーグース研究会(現在は、学会)」を設立し、30年以上活動を続けています。ただ、ここ10年、そういった引用が少なくなってきました。英語が脱英米化してきた反動かもしれません。
 紙幅が残り半分です。真面目に辞書を引かなかった失敗談を、恥ずかしながら披露します。The New York Times International Editionを読むのが日課ですが、ある時、どうも意味が取れない箇所がありました。arguablyという単語です。それまでは、動詞argueが「言い争う」だから、「言い争うことができる→疑わしくて」と勝手に解釈していました。辻褄が合わないので、辞書を引いてみてびっくり!「⦅しばしば比較級・最上級の前で⦆ほぼ間違いなく、おそらく (反対されそうな発言に根拠や理由などを加える。絶対とは言えないが、自分はそう信じているというニュアンスがある)」(『コアレックス英和辞典 第3版』旺文社)、とあるではありませんか。不勉強を恥じた次第です。 
 それからは極力、辞書を引いて読むようにしました。そこで、思わぬ発見もありました。ある英和辞典でnextが元は最上級だったと知った時です。nighが原級、そしてnearが比較級だったと。一番近いからnextが「隣、次の」という意味になったんだと分かり、思わず膝を叩きました。
 今は、せっせと英字紙などから生きた用例を集めています。「無観客での(試合)」というときに、spectator-freeという簡潔な言い方を見つけ、ひとりほくそ笑んでいます。オーソリティになるのは無理にしても、せめて“コソリティ”にはなりたい、と夢を描いているseptuagenarianです!

 

【プロフィール】弘山貞夫(ひろやま さだお)
名古屋市出身。愛知県立大学外国語学部英米学科を卒業後、西三河地方で長年、愛知県立高校教員として勤務。共著『だから英語は教育なんだ』(研究社)。退職後、豊田工業高等専門学校で非常勤講師。マザーグース学会副会長。新英語教育研究会全国常任委員。
憧れは北斎の境地です。「七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」

英語のオシゴトと私 第13回―松井孝志
「甲子園」と「タンバリン」

2020年4月3日|英語のオシゴトと私

 3月は英語でMarch。この原稿を書いている2020年3月中旬現在、COVID-19の感染拡大から、入場行進のテーマ曲も毎年話題を呼ぶ、甲子園での選抜高等学校野球大会も中止となりました。教室での授業という私の「オシゴト」も宙に浮いてしまったのですが、その一方で、世界を飛び回るWeb上の「英語ニュース」をじっくり読む時間が増えました。

 今回は、細井俊克先生から河村和也先生へと渡されたバトンを私が受け取りましたが、両先生とは大学の同窓であり、細井先生とは同郷、河村先生とはかつての同僚でもありました。そんなつながりを感じられるようなエピソードから少しお話ししたいと思います。
 細井先生は水泳(競泳)のコーチとして豊富な実績をお持ちですが、私は自分の「本業」をロウイング (ボート競技) のコーチ、「生業」を英語教育、と公言してきました。英語教師と並行して、母校の東京外国語大学のボート部のコーチを12シーズン務めた後、国体の指導者として山口県の体育協会に招かれ、県の国体チームの監督として高校生や大学生、社会人の指導を12年ほどした後に、また関東へと戻ってきました。
 ボート競技というのは、後ろ向きに漕いでゴールを目指すスポーツですので、「教室」で黒板に向かう教師の姿に準えて、
— Facing backward is my second nature. (後ろ向きが私の第二の天性)
と英語での自己紹介の際には付け加えています。

 「生業」の英語教育でも30年以上に渡り、都立高校で2校、都内の私学で2校、地方の私学で1校と多くの同僚を得ましたし、かつての「オーラル・コミュニケーション」や「ライティング」の検定教科書の著者として、また研究会や学会、シンポジウム等では、日本を代表する英語教師や研究者の方と仕事をしてきました。その数多の英語教師の中で、「この人の英語はずっと聞き続けていたい」と思わせてくれる音声の主が河村先生でした。
 私は、北海道は帯広という町に生を受け高校卒業まで過ごしたのですが、ある日、当時同僚だった河村先生から
— 「自分の育った土地のことば」に何か「音声面・音韻面での特徴」があるか?
と尋ねられたことがあります。
 「音声・音韻」での特徴ということで、私は「幼稚園(ようちえん)」という語のアクセントが、共通語と私の土地のことばとでは違いますね、という返答をして、2種類のアクセントを声で示したと思うのですが、そのことを河村先生はよく覚えておいでで、ご自分のブログ記事に書かれていました。(細井先生も同郷ですので、恐らく、私と同じようなアクセントで「幼稚園」と音声化できるのではないかと思います。)
 河村先生が素晴らしいのは、その前者と後者の「アクセント」の差を、誰もがよく分かる別の語(この原稿のタイトルにある2語です)を引き合いに出して示されていたことです。英語教師である前に、自分の母語を良く知っておくこと、そして教師たるもの「具体例」の引き出しが豊かであり、要所要所で「典型例」を示せることが大事だと、再認識させてくれるエピソードです。

 私の英語の授業でいえば、典型例とも言える「持ちネタ」のひとつに、untiedなどの他動詞の過去分詞由来の形容詞の指導があります。
— 「制服のリボンを結ぶのがtie 、結ばれた状態が tied。結んであるものを解くのがuntie。untie されると、untiedで安泰だ」
というものです。unanswered 「答えのない;返事がない」などの形容詞では、answerからansweredという分詞形容詞がまず作られ、その対義概念として、unansweredができる、という語形成なのに対して、tieの場合は、動詞の段階で反意語のuntieが存在しますから、do対undoのように、一度したことを元に戻す動詞の対があるよ、という注意喚起で使っています。

 COVID-19の対策に関しても最適解が見えにくい unansweredな状態が続いています。その影響が収束して、不安から「解き放たれる」日は、まだ遠いようにも思いますが、新年度の授業に向けては、日々「前向き」に準備して臨みたいと思っています。

本原稿のBGM: 『三百六十五歩のマーチ』 (水前寺清子)

【プロフィール】松井 孝志(まつい たかし)

北海道帯広市出身。東京外国語大学卒業後、都立高校教諭、都内私立高校教諭などを経て、現在はフリーランスの英語講師。ライティング指導、評価を専門としている。主な著書に『パラグラフ・ライティング指導入門』(2008年、大井恭子・田畑光義と共著;大修館書店)、『学習英文法を見直したい』(2012年、大津由紀雄監修、共著;研究社) など。「英語の講師が学びたい講師」として各種セミナーでも活躍。近年では文字指導のワークショップも手がけている。
日本スポーツ協会ボートコーチ4資格を持ち、東京外国語大学大学、山口県のチームで競技力向上に尽力。プライベートではフィギュアスケートの大ファンでもある。
座右の銘は「群れるな、連なれ」。

 

英語のオシゴトと私 第12回 ―浅野享三
ゴーホン!といえばのど飴,ではなく・・・

2020年2月17日|英語のオシゴトと私

 敬愛する東京の前田隆子先生からバトンを受けました。かつて陸上競技部で短距離を走っていましたので,円滑なバトンの受け渡しがレースを左右することは承知です。バトンを落とさぬように,まずは隆子先生と同様に私もNHKラジオ英語講座から始めます。私が中学生の頃は,誰にでもできる学習方法はラジオ講座だけでした。ある時,勉強がよくできる同級生のノザワ君が,その秘訣を「ラジオ講座」と教えてくれました。振り返ると不思議です。あのイガグリ頭の子との会話がなければ,ラジオ講座との出合いはなかったからです。
 お世話になったのは「続・基礎英語」の安田一郎先生とマックス・E・ラッシュ先生でした。放送の聴き取り問題で Max E. Lash or Rash と尋ねられたので記憶があります。“Hello, everybody! Let’s begin our English lesson.” で始まりました。everybody の発音がやや英国風だったなと,後に気がつきました。私のラジオ講座熱はその後も長く続き,松本亨先生の「英語会話」に心酔し,フランス語は朝倉季雄先生や丸山圭三郎先生のご担当でした。そしてスペイン語とロシア語もかじり,今でも発音の基礎は身に付いています。

 ところでその後,心理学の授業で動機付けには intrinsic と extrinsic の両面があることを学びました。外国語学習に関する限り,私のはほぼ完全な intrinsic motivation による自己決定の成果です。現在大学で担当する英語科指導法の授業では『どちらの動機付けも必要で,時に外発的な方が「好結果」が期待できることがある』などと論じています。しかし,現在の英語教育の課題の1つは,学習者自身が心から「英語が知りたい,読みたい,話したい」と思わされる原体験の無さに起因するのではないか,と思っています。
 何故それほどまでに私は,英語が知りたい,読みたい,話したいと切望したのか。中・高時代を振り返ると,生家が八百屋だったからだと確信します。若い世代の方は「八百屋」を知らないはずですが,親の営んでいた八百屋は,果物,野菜,鮮魚を含めた生鮮食料品など,食べられるものはほぼ全て取り扱う地域の繁盛店でした。私は子どもの頃,ダイコンやキャベツに囲まれて暮らしていたので,英語学習とは無縁のはずでした。しかし,買い物に来た外国人が,私を英語という異文化に導くきっかけを作りました。

 小学生時分の記憶では,名古屋にはまだ駐在外国人キャンプが街中にあり,父母はその近くに店を構えていました。時々お手伝いさんのような日本人女性が来店し,注文だけして帰っていく仕組みだったようです。ある日父に「配達を手伝え」と言われてついて行くと,そこで目にしたのは,白いフェンスに,濃い緑の芝生,そして水をたたえた真っ青のプールでした。中には大人の背丈より高いくらいの冷蔵庫があり,その前に父が届け物を置きました。生家の周辺からは想像すらできない異次元空間に,ただただ興奮するばかりでした。
 中2の夏の夕方,階上にいた私に,母が「外人が来て,何か言っとる!分からん。聞いてくれ」と叫びました。店に降りて行くと,1人で買い物に来た大柄な白人女性が「ゴーホン,ゴーホン」と繰り返していました。見せられたメモには “Gohon”とあったものの,理解できないままでした。すると買い物中だった近所の大学生のショーちゃんが,いきなり「ゼアリズノー」と言ったら,その女性は「オー」と発して帰っていったのです。ショーちゃんに聞くと,「ゴハンのことと思った」と打ち明けてくれました。
 Gohon からゴハンと推測したショーちゃんはさすがに優秀な大学生でした。単語の意味が不明でも,食料品を扱う店という文脈から推測することは可能でしたから。その時は ゼアリズが There is の発音だったことを気に留めなかった私ですが,教師になって,それが英国英語風の発音だったと気づきました。当時はまだ英国風が目立つ時代でした。また,正にこの瞬間こそ,私が初めて生きた英語による interaction に遭遇した瞬間でもありました。わずか3音節だけの,日本語ではない音声が人を動かすことを経験しました。

 50年前を振り返るとその瞬間こそが,この道に進んだ自分の中のビッグバンの始まりでした。本屋でテキストを買い,めくっても読めない英語にワクワクしました。安田先生のおかげで自己流発音が改善し,LとRの違いを克服し,east と yeast の違いも得意になりました。松本先生と講師のやり取りを細大漏らさずに聴き,“Other wives may have other secrets. But mine is, I look my best before him, and let him think that I am the best cook in the whole world.”などと,夫婦円満の秘訣を一度の放送で長期記憶に留めてしまうほどでした。
 親や先生から言われたわけでも,入試のためでもなく,ただ聴きたいから聴き続けました。高校の実力テストで学年トップの成績だと知っても,大して感動もなく「へえー」と内心で喜んだ程度でした。時が流れてやがて親になり,ラジオ講座をわが子に試しました。しかし長女は3年間,次女は2年間で挫折し,長男はテキストを購入しただけでした。結果,内発的な動機付けなど軽々に期待できないと実感するに至りました。外国語に好奇心を持たせてくれた神様に感謝です。

【プロフィール】浅野 享三(あさの けいぞう)
「けい」の漢字を口頭で伝えるのに苦労する。享保の改革,はまず理解されない。享受か享楽の「きょう」で,理解度約50%。イライラするので享年の「きょう」と言い換えても,100%は無理。「享」の字を英語で説明するときはenjoyと同じ意味,としている。「享年」とは人生をenjoyし終えた年のことか,と納得の向き多し。
南山国際高校・中学教諭・南山短期大学講師を経て,現南山大学外国語学部教授。愛知県出身。

英語のオシゴトと私 第11回 ―河村和也
若林先生と作ったテスト

2019年12月27日|英語のオシゴトと私

 県立広島大学の河村和也です。「教師生活25年」と聞いて『ど根性ガエル』の町田先生の顔を思い浮かべることのできるのはわたしと同世代の方々ですが、そんなわたしも教師生活30年を数えることとなってしまいました。中学校・高等学校の教員として15年を過ごし、思うところがあって大学院に学び、そのあとは大学の非常勤講師として暮らす日々が続きました。東京に生まれ育ったわたしですが、広島の大学に勤務することになり、もう3年が経とうとしています。今年、『英語教育』(大修館書店)の5月号にわたしの30年間を振り返る文章を掲載していただきました。ご興味がおありでしたら、お読みいただければ幸いです。
 さて、今回は白梅学園の細井俊克先生からバトンタッチを受けました。細井先生とは不思議なご縁をいただき今日に至っています。何を書いたものかとずいぶん考えましたが、細井先生との共通の恩師である若林俊輔先生(1931-2002)のことを書こうと思います。
 お若い方は、若林俊輔という名前になじみがないかもしれません。70歳で亡くなられて間もなく18年になりますが、1980〜90年代を中心に、日本の英語教育について積極的に発言された方です。最近、先生が雑誌等に書き残された数多くの文章から主だったものを採録した書物も出版され、その主張の内容があらためて注目されています。『英語は「教わったように教えるな」』(研究社、2016年刊)などわたしの関わらせていただいたものもありますので、ぜひ一度お手に取っていただければありがたく思います。
 若林先生の経歴をたどると、大学の卒業と同時に東京都文京区立第六中学校の教員となり、ELEC(当時は日本英語教育研究委員会、後に財団法人英語教育協議会)に主事補として移られました。その後、群馬工業高等専門学校、東京工業高等専門学校、東京学芸大学を経て東京外国語大学に転ぜられています。細井先生とはずいぶん世代差がありますが、ふたりともこの東京外国語大学で若林先生に教えをいただきました。
 先生のお仕事は多岐にわたります。この稿では、お若い頃、特にELECから2つの高専にかけての時期になさったお仕事のうち、世間にあまり知られていないものをご紹介しようと思います。
 それは、ある女性との出会いがきっかけでした。津田塾大学を卒業し母校のLLに勤務されていた三神順子さんとおっしゃる方がELECの事務局に入って来られたのです。若林先生ご自身、還暦記念論文集に「自分史」を書かれる中で、このときの出会いを振り返っていらっしゃいます。
 この女性は渋谷にある中高一貫の女子校にも非常勤講師として勤務されていました。当時の若林先生はLLの設計や運営に強い関心を寄せていらっしゃったこともあり、ELEC退職後は高専に勤務するかたわらその学校に非常勤講師として赴き、現場の中学校の先生たちと共同でリスニングテストを開発されたのです。先生がその学校で仕事をされたのは1964年4月から2年間とうかがっています。
 なぜわたしがそんなことを知っているかというと、わたしもその学校に勤務していた時期があるからなのです。今から20年ほど前のことです。当時もそのテストは「現役で」使われていました。
 三神順子さんは結婚され別の姓を名乗っていらっしゃいましたが、わたしが若林先生のゼミの出身であることを喜んでくださり、よく懐かしい話をしてくださったものです。このリスニングテストのことは「若林先生が作られたテスト」とか「若林先生と作ったテスト」とおっしゃっていたように思います。
 当時すでに考案から30年を経ていましたが、今思い出してもなかなか面白いものでした。テストの現物が手元に残っていないのが残念ですが、さまざまな問題形式の中で、とりわけ印象に残っているものをひとつご紹介しましょう。
 いわゆる定期試験です。生徒には問題と解答用紙が配られます。生徒の問題には、次のように印刷されています。

    1. at    2. of    3. to    4. with

 わたしたち教員は3人体制で放送室にいるのですが、この問題のときにはマイクに向かって次の英文を読み上げます。

       Meet me in front ♪ the library at 4 o’clock.

 放送室には鉄琴があります。放送の始めと終わりに「ピンポンパンポン」と鳴らすあの楽器です。チャイムとかビブラとも呼ぶそうですが、この英文の ♪のところで、これを1回だけたたくのです。3人で放送室にいたのは、読み上げる係と鉄琴を叩く係、それにタイムキーパーが必要だったからです。緊張の生放送でした。タイミングをはずすわけにはいきません。50分の試験時間のうち30分ほどを使ったテストでしたが、終わるとぐったりしていたことを思い出します。
 この問題に出会ってから20年。類似の出題形式を見たことがありません。もっとも、それは「寡聞にして知らない」ということなのかもしれません。インターネットの世界に発信する機会を得ましたので、この試験の由来等についてご専門のみなさまからご教示いただければ幸いです。
 最後にもうひとつ思い出したことがあります。このテストは「リスニングテスト」や「ヒアリングテスト」ではなく「ラボ」のテストと呼ばれていました。語学ラボラトリーの「ラボ」です。この響きに、この問題が作られたであろう1960年代半ばの英語教育の様子がしのばれるように思います。
 英語教育の歴史に関心を寄せ研究のテーマとするようになったわたしですが、若林先生ご自身のお仕事について詳しくうかがうことはほとんどありませんでした。恩師が30代の頃に作られたリスニングテストのことを思うにつけ、そのことが悔やまれてなりません。英語教育史研究は先生がわたしに与えてくださった大きな宿題です。派手なところのない仕事ですが、今後も一歩ずつ進めて行きたいと思っています。

【プロフィール】河村 和也(かわむら・かずや)
県立広島大学総合教育センター准教授。専門は英語教育史。
東京都足立区出身、広島県庄原市在住。
主だった著作に、『外国語活動から始まる英語教育:ことばへの気づきを中心として』(あいり出版、2014)、『英語は「教わったように教えるな」』(研究社、2016)がある(いずれも共著)。
日本英語教育史学会理事、日本英学史学会中国・四国支部理事、語学教育研究所評議員、庄原市教育事務評価検討委員。
趣味は舞台鑑賞。OSK日本歌劇団と宝塚歌劇団の大ファン。

 

 

英語のオシゴトと私 第10回 ―前田隆子
良き師たちとの出会い

2019年11月5日|英語のオシゴトと私

 大学で英語を教えるようになってすでに四半世紀が過ぎてしまった。思えば、「将来就きたい職業は?」と聞かれれば、小学校時代は「小学校の先生!」と答え、中学・高校時代には「英語の先生!」と答えたほど、私はずっと先生になりたいと思ってきたらしい。だから大学では迷わず教職課程を履修し、晴れて中学・高等学校の英語の教員免許を取得した。
 どうしてこんなにも先生になりたかったのか?それは、幼稚園から大学院に至るまで、良き師との出会いの連続だったからだと思う。特に中学1年の時の英語の先生との出会いが私の一生を決めてしまったようだ。その方は若い女性の先生で、彼女の素晴らしい英語の発音のおかげで、一歩でも先生に近づきたいという憧れの思いを抱いて、一生懸命に英語を勉強した。また頻繁に職員室に先生を訪ねて、いろいろな質問をしたり、先生から特別な課題(“The Elves and the Shoemaker”『こびとのくつや』という絵本を毎週少しずつ日本語訳していくというもの)をいただいて、必死に取り組んだことは良い思い出でもある。この頃同時にNHKのラジオ講座「基礎英語」を毎日楽しく聞いていた。小島義郎先生が講師をなさっていて、毎週土曜日のキャロライン洋子さんが歌う「英語の歌」のコーナーが一番のお気に入りだった。この番組を聴きながら、たくさんの英文を音読したり、英語の歌を覚えたりしたことが私の英語力の素地となっている。
 高校は帰国子女の多い学校に進んだのだが、入学式の日に学校に到着してトイレに入っていたら、扉の向こう側から英語のおしゃべりが聞こえてきて、「私はこの高校でやっていけるのだろうか。」と急に不安に襲われたことを今でもはっきりと覚えている。しかしそれはあっという間に杞憂に終わり、帰国子女の友人たちからたくさんの外国の話を聞いて、海外へのあこがれが一層増したものだった。ただこの高校3年間は、英語の「生き字引」とも言える友人に頼りすぎたきらいもあり、英語の勉強が少しおろそかになった時代でもあった。
 大学入学後は2年次から英米文学科に進み、様々な英文学作品に親しんだり、古英語と格闘したりした。この頃もNHKのラジオ講座のお世話になり、大学4年生の頃は杉田敏先生の「やさしいビジネス英語」を聞くようになっていた。今回このリレーエッセイのバトンをいただいた三谷裕美先生(獨協大学)は当時からの友人で、二人でラジオ講座のスキット1週間分を週末に暗記し、月曜日には暗記した英文で会話するという練習をしていた。(良き友との出会いにも感謝!)
 さらに大学では教職課程を履修したことは先に述べたが、「英語科教育法」の授業で見たBBC制作の“Teaching Observed”という番組が私の研究テーマとの出会いとなった。この番組は、アジア、アフリカ、南米など英語が第一言語ではない国々での初等学校における英語教育を紹介したもので、私にとっては「目からうろこ」であった。当時から日本人の英語力の低さは問題視されていたが、「中学からではなく小学校から英語教育を開始すれば、日本人の英語力はもっと向上するのではないか。」というなんともシンプルな仮説を立てて、卒論に取り組んで以来、私の生涯の研究テーマとなった。
 このように私の人生は良き師たちによって導かれたと言っても過言ではない。現在は小学校で英語を教える教員のための研修や教員養成に関わっているが、私は彼らにとって「良き師」となれているのだろうか?私が英語との「幸せな出会い」をしたように、全国の子供たちが良き師を通して英語と幸せな出会いができるように、これからも日々精進していきたい。

【プロフィール】前田 隆子(まえだ・たかこ)

明海大学・外国語学部・英米語学科・専任講師。専門は英語教育学。『学校変革実践シリーズ 第7巻 国際人を育てる』(ぎょうせい、1998年)、『スタディベア 中学 英文法』(旺文社、2002年)、『大学における学習支援への挑戦―リメディアル教育の現状と課題―』(ナカニシヤ出版、2012年)などの執筆に携わる。趣味は英語、韓国語、タガログ語で歌うこと。

英語のオシゴトと私 第9回 ―細井俊克
現代の教師として生涯学習社会を生きること

2019年9月6日|英語のオシゴトと私

 東京都小平市、白梅学園の細井俊克です。立命館中高の今井先生からご指名をいただきました。これまでの執筆者の方々が、私にとっては雲の上のような存在のスーパースター的先生方でありまして、正直荷が重いとは思った次第。しかしながら、尊敬する今井先生のバトンということになれば、いい加減なことを書くわけにはいきませんし、下手をすれば同郷人として活躍されている先生をはじめ北海道の恥さらしになってしまいます。心していきたいと思います。
 さて、「英語のオシゴトと私」というお題です。自分のことをいつまでも授業が下手だなぁ、素人だなぁ、と思いつつ英語教育に携わりながら、数えてもう十数年になりました(教え子たちには「本当にごめんなさい!!」)。実年齢の割には教歴も短く、まだまだ新参者の気持ちが消えないのは事実でありますが。今回は、私が英語をオシゴトにするまでの紆余曲折、波瀾万丈(という割には小粒なのですけれども…)のパーソナルヒストリーをご紹介して、教員にもいろんな人がいるよなぁ、というようなことを再認識する機会としてでもご笑覧いただければ幸いです。
 生徒に聞かれれば年齢28歳と答えることにしている私、北海道を大学受験で出まして東京に渡り、実質、東京人としての期間の方がはるかに長い人生と、既になってしまいました。大学では外国語学部英米語学科というところに在籍し、高校1種の教員免許を英語科と地歴科で取得、華々しく教員歴をスタートさせるかと思いきや、職業として最初のキャリアとなったのは水泳のコーチでした。フリーの水泳コーチとしていろいろなところのスイミングクラブに「遊軍指導」(自分の仕事を勝手に自称したものです)しながら、母校の大学の水泳部を指導するという生活を続けていました。英語教育を考えればわかるかと思いますが、can doであればcan teachというわけではないのは周知のとおり(このことをわかっていない人がいっぱいいる‼)。泳げはしましたが、泳ぎの教え方は素人だと気付き、大学院で社会人学生として人間科学を学ぶことにしました(英語とはなんにも関係ないと思うかもしれませんが、身体活動の教授‐学習論をここでしっかり学んだことは、英語教育や生涯学習にも通じる得難い経験で、今の私には確実にプラスになったと思っています)。
 そのような生活をしていて働きながら大学院のマスターを修了、どうにかこうにか契約社員的な立場で水泳コーチを続けていたわけですが、スイミング関係でかかわりのあった前々任の芝浦工業大学中高で英語の教員が足りないということになり、非常勤講師として英語を教え始めたのが今から14年前の話になります。英語教員としてのキャリアはそこから。さらに学校を1つ経て、現在の白梅学園に落ち着いて現在6年目。
 こんな私ですが、現在も故あって、働きながら慶應義塾大学文学部に学士入学し、勉強させていただいております。この原稿も夏休みの真っただ中に取り組んでいますが、ちょうどスクーリングで慶應大学日吉キャンパスに毎日通っておりまして、慶應日吉メディアセンターのPCを使わせていただいて書いております。こんな感じで、一体全体いつまで勉強を続けるんだという感じではあるのですが。仕事しながら勉強することがどれだけ普段の授業につながるか。意識しているところはありませんけれど、今の立場に立ってみれば、いろいろなところの研修会に参加したり、授業で様々な分野の方々とかかわったりすることで、少なくともアクティヴ・ラーナーとしての姿ぐらいは、生徒たちに見せることができるかもしれません。
 生涯学習ということが叫ばれるようになって久しいですが、教育現場にいる我々教師は、なかなか新しいことを学んだり、幅を広げたりする時間的余裕が保証されているというわけではありません。やるべきことは山積みになっているし、部活や校務でも、本当に時間がない。だけれども、生涯にわたって少なくとも学び続ける方法を伝えていかなくては、持続可能な社会の担い手を育成していくことはできません(大前研一さんによれば、学ばない先生は生徒に対して不利益を与えているに等しいそうです)。そういうことのヒントを、忙しい中でもなんとか生徒に示すことができたらいいな、と思っているのです。明日どうなっているかわからないような、格差と不安定さに慣らされてしまっているような現代だからこそ。

【プロフィール】細井 俊克(ほそい・としかつ)
学校法人白梅学園 白梅学園高等学校 英語科 教諭
北海道帯広市出身、帯広三条高校、東京外国語大学卒、日本大学大学院修了。
日本スポーツ協会公認コーチ(競泳)、米国スポーツ医学会認定エクササイズフィジオロジスト。
水泳コーチとして活動したのち、2006年より芝浦工業大学中学高等学校を皮切りに教員生活をスタート。英語のみならず運動科学分野での経験を生かし、国立健康・栄養研究所において技術補助員も務めた。所属学会は日本医療情報学会、日本教育工学会、語学教育研究所など。座右の銘は小学生の時から「大器晩成」。

英語のオシゴトと私 第8回 ―三谷裕美
「へぇ~」から始まる英語の愉しみ

2019年7月22日|英語のオシゴトと私

 「英語の先生になる!」と子供のころから一度も思ったことがなかった私が、英語を教える仕事に就いたのはなぜだろう、と改めて考えてみた。中学・高校でも、英語は特に好きでも得意でもなかった。ただ、子供のころから知らなかったことを知ると「へぇ~」となるのが楽しかった。英語学習も留学も英語を教えることもまさにこの「へぇ~」の連続であり、「へぇ~」の楽しみを繰り返して今に至ったのかもしれない。
 アメリカへの大学院留学を目指して勉強していたときは、さすがにいちいち感動する余裕もなく膨大な数の英単語を脈絡もなくひたすら丸暗記した。stratosphere(成層圏)とか、amphibian(両生類)、embezzlement(横領)などはそのころ覚えた単語である。留学準備のおかげで知っている単語の数が飛躍的に増えたが、実際にアメリカ生活が始まると、住んでみないとわからないことばが次々に現れ、「へぇ~」と思うたびにメモを取り始めた。
 アメリカではreading assignmentsと呼ばれる課題に毎日明け方まで追い立てられて、友だちとゆっくりおしゃべりする時間もなかったので、生活の英語を学んだのは主にテレビからだった。テレビのそばに常にメモ帳とペンを置いておき、気になった単語や言い回しを書き留めていたら、「思い出の単語帳」のようなものができた。
 私はTVアニメのThe Simpsonsが大好きで、登場人物のせりふから多くのことばを学んだのだが、どんな場面でどの登場人物が発したことばなのかもいまだに覚えている。たとえば、resilientという単語は、多くの辞書では「跳ね返る力のある、弾力のある」が第一語義である。ところが、崇敬している社長に叱られてひどく落ち込んでいる男性秘書Mr. Smithersについて、Lisa(シンプソン家の娘)が、「きっと大丈夫よ。彼はresilientな(落ち込んでも立ち直れる)人だから」と言う場面があり、resilientは何かの素材だけでなく、人間の性質を形容するのにも使えることを新たに知った。また、I’ll find out what he is up to. (彼が何を企んでいるのか突き止めてやる)は、庭で一心不乱に穴を掘り続けるBurt(シンプソン家の息子)を心配する母親を安心させるために、Homer(父親)が言うせりふで、be up to (something)(何かに取り組む、何かを企む)という慣用表現はこのせりふで覚えた。単純な単語の組み合わせだが、文脈がないと意味と使い方がわかりにくいことばの一例である。
 アニメのほか、野球の実況中継でアナウンサーが叫ぶ Holy cow!(なんてこった!)が面白くて、「なぜに牛?」と辞書を引いたし、日本でも放送されていたFamily TiesFull Houseなど、古いsitcom(コメディードラマ)からもたくさんのことばを学んだ。ある日、ドラマの中で赤ちゃんを見た女性が「ドァブル」と言っているように聞こえたが、つづりがわからない。そのままdoable、drableなど、辞書で引いてもわからず、とりあえずメモして、後日アメリカ人の友だちに文脈と一緒に説明すると、それはadorable(愛らしい)に違いない、と即答された。動詞adoreの辞書的な意味(崇拝する、敬愛する)は知っていたが、「へぇ~、赤ちゃんについて使うんだ」と驚き、以後、赤ちゃんを褒める形容詞としてadorableは私の語彙にしっかり定着した。
 アメリカから戻って10年後にイギリスにも留学したが、イギリスでも新たな「思い出の単語帳」が生まれた。同じ英語の国ながら、イギリスではアメリカで生活していたときにはなじみがなかったことばにたくさん出合ったからである。まず大学で履修する「科目」はアメリカではcourse、イギリスではmoduleで、「指導教官」はアメリカではadvisor、イギリスではsupervisorと呼んでいた。統計学の授業では、先生が0.005を「ノゥポイントノゥノゥファイヴ」と読んだので、「ゼロはnoなの?」とびっくりしたが、イギリスではよく数字のゼロをnaughtと読むのだと友だちが教えてくれた。大学で入寮申込書を記入するときにも、duvet(アメリカではcomforterと呼ばれる掛け布団)、en suite(トイレ・シャワー付きの部屋)などは辞書なしでは意味がわからなかったし、ハンバーガーに用いるような丸くて少し平べったいパンはアメリカではbuns、私が留学したイギリス北東部ではbapsだったので、これもメモした覚えがある。アメリカとイギリス、2回の留学を経て、私の「へぇ~」の記録となる2冊の単語帳ができたのだった。
 留学から戻って大学で英語を教えているが、授業の準備も新しい学びにつながる。最近ニュースでもよく取り上げられているが、大量のプラスチックのゴミが海に浮遊していて、魚や鳥、そして人間に悪影響を与えうることは、10年ほど前にリーディングの教科書で読んで初めて知った。また、陽の光も届かぬ深い海の底にhydrothermal vents(熱水噴出孔)があって、もうもうと硫化水素やミネラルを含む熱水を噴き出しており、その周りには巨大なtubeworms(チューブワーム、管棲虫)など奇妙な生物が大繁殖していることなど、「へぇ~」と驚きながら授業の準備をしている。
 知らないことが知っていることに変わるのは楽しい。知らないことは世の中にいくらでもあるので、楽しみの種は無尽蔵だ。簡単な情報の交換なら自動翻訳機で十分、という時代になりつつあるが、外国語を学ぶということは、知らないことを知るという人間の根源的な歓びを味わうことができる最も簡単な方法の一つであり続けると思う。その楽しさを学習者と共有しながら教師を続けていきたいと考えている。

【プロフィール】三谷 裕美(みたに・ひろみ)
獨協大学専任講師。専門は応用言語学。訳書にデイヴィッド ・クリスタル著『消滅する言語—人類の知的遺産をいかに守るか』(斎藤兆史氏と共訳、中公新書、2004年)など。動物(特に犬と猫とマナティーとワオキツネザル)好き。

英語のオシゴトと私 第7回 ―今井康人
英語教育と生きる―学びは人生を変える―

2019年6月5日|英語のオシゴトと私

 尊敬する島原先生からエッセイを書かないかというお誘いをいただいた。お題は「英語のオシゴトと私」である。元々、執筆が嫌いではないので、すぐに興味を感じたが、そこはいい大人である。一呼吸おいて、少し落ち着いて考えた。もちろん、その程度で断る理由もなく、承諾のメールを送らせていただいたことから現在に至っている。

 僕は京都(烏丸)に住んでいる。長いこと北海道で英語教員をしてきたが、縁あって、京都と大阪の生徒を中心に英語を教えさせてもらっている。そもそも僕が英語教員になると決めたのは、中学校で出会った故・倉田秀夫先生の情熱的なご指導に触れてのことである。倉田先生が教える生徒たちはなぜか皆、優秀な成績を残した。先生はもともと田舎の小さな分校のような学校で教えていたが、そこから優秀な生徒が何人も輩出し、大きな学校に転勤された先生であった。当時の僕は英語が好きで、一生懸命に勉強していた。僕が中学2年生になったとき、その学校の倉田先生のクラスになり、ますます喜んで英語の授業を受けていた。当時、先生は音読を授業の中心においていた。教科書の英文を何度も何度も繰り返し音読した。英語はいつしか得意教科となり、将来、英語教員になるという夢を僕に与えてくれた。大学も外国語学部英語学科に入り、英語教員になるという目標を胸に、学生生活を送っていた。
 大学4年の時、ある財団主催の留学試験を受けた。1年間の留学費用が全額無料になるという制度で僕は最終審査に残った。2年越しの挑戦であった。合格までもう一歩のところまできていた。ここで留学が決まれば、人生が変わると思っていた。かなり力が入っていたことは間違いない。そこで僕は、英語の質疑応答で宗教的な話題になったとき、キリスト教について詳しくもないのに熱弁をふるった。熱心な信者でもない僕が話した内容は極めて薄く、信ぴょう性のないものとなり、面接官の方々の苦々しげな表情は今でも忘れられない。結果はもちろん、不合格。このショックは大きかった。自分を良く見せようとしたことが失敗の原因だった。面接の受け方をここで思い知ったのだ。この苦い経験が、その後、教員採用試験で逆に力となった。そして今も生徒の面接指導に生きている。
 今年、教え子の一人が東京大学理科一類工学部に推薦入試で合格した。面接練習も行った。「自分を良く見せようとするから緊張する。今の自分を正直にそして正確に見てもらうことが面接では重要」と指導している。
 大学卒業と同時に教員として採用され、以来、高校で英語を教えてきた。教科書執筆の機会もいただき、新しい指導方法を研究開発し、幸運にも本や問題集も執筆している。現在、教え子たちは大きく羽ばたいている。高校3年間で、共に英語を学んだ生徒たちの活躍が何より嬉しい。2年間浪人していた教え子が、推薦書を依頼してきた。もちろん全力で書いた。センター試験が終わり、教え子から合格したとの連絡が来た。合格先は、奈良県立医科大学医学部であった。彼の医者になる夢が現実となった。受験は厳しいが、乗り越えれば人生は変わる。逃げずに挑戦する者に夢の実現は訪れる。

 英語学習に近道はないが、王道はある。基礎(語彙と文法)を充実させ、理解し、内在化し、発信することが言語習得を促す。活動は、Q&Aが軸となるだろう。summaryやopinionを自分で作成できるようになることが重要だ。その方法を学び、実行できるようにすることが何より大切なのだ。英語は音と文字が意味を示す。この音、文字、意味の認知を進め、表現できるようにする力を鍛えるべきである。最終的に、堂々とdiscussionできる人材になってほしい。
 英語は言語、つまり人の思いを乗せて伝えるものだ。分かり合える瞬間に感動がある。学びには人生を変える喜びがある。「英語のオシゴト」は今まさに僕の生きがいとなっている。深謝。

【プロフィール】今井 康人(いまい・やすひと)
立命館中学校・高等学校(京都)教諭(マイスター・ティーチャー)。高等学校で教鞭をとって37年目。2014年に新英作文指導法を研究開発し、その指導法は全国に広がっている。英語教育セミナーを全国で行い、さらに英語教育今井塾(英語教員対象)を展開し、後輩の育成に尽力している。著書に『英語を自動化するトレーニング』(アルク)、『ゼスター総合英語』(Z会出版)、『英語力が飛躍するレッスン』(青灯社)など。

英語のオシゴトと私 第6回 ―石塚美佳
好きこそ物の・・・

2019年4月22日|英語のオシゴトと私

 多種多様なことに興味を持つ私には、飽きっぽいという一面がある。ピアノや水泳は56年、アニメの追っかけは3年、ダイエットにいたっては各種数日ずつで終わっている。そのような私が今日に至るまで継続できていることが2つある。1つはバレエやコンテンポラリーダンス、演劇、歌舞伎やミュージカルといった舞台芸術鑑賞。これは40年以上続いている。もう1つが英語に関する興味である。「英語に関する興味」と言ってしまうとかなり大ざっぱな感じだが、中学1年生の時に初めて英語に触れて以来、英単語や文法と日々格闘することはあったものの、嫌いになることはなく、英語と英米文化に興味を持ち続けることができた(と言っても、アメリカの大学院で勉強し始めた時は、そのハードさ故に、英語を見るだけで吐き気をもよおしそうな時も…)。

 英語が好きになったきっかけはいくつかある。1つはTVの音楽番組で Peter, Paul and Maryというフォークソンググループが “Blowin’ in the Wind” と“Puff, the Magic Dragon” という歌を歌っているのを聞いて、英語で歌が歌えるといいなと思ったことである。もう1つは、ハマっていたアニメーションの関連グッズに、“Man may transcend even time years ahead ―人類は時間さえ超越するかもしれない” と書かれているのを見て、なぜだかかっこいい!英語ってかっこいい!と思ったことである。このアニメーションにはカタカナ語が多く使われていて、それが英語であると徐々にわかった時、逐一その単語の意味とスペリングを調べていたのであった。

 英語と現在の仕事とを結びつける最大のきっかけは、高校1年生から2年生になる春に、英国短期留学のプログラムに参加したことである。イギリスでホームステイをしながら語学学校で約2週間勉強し、残りはパリ、ジュネーブ、ミラノ、フィレンツェ、ローマを駆け足で訪れ、文化遺産を見て回る、といった語学の勉強と異文化社会見学を兼ねた研修プログラムであった。2週間という短い期間であり、なかなか上手く自分の考えや気持ちを英語で伝えられない状況ではあったが、ホストファミリーとも仲良くなり、英語をさらに勉強したいと思うきっかけとなった。研修参加前には、大学で日本文学科に進学するつもりで受験科目も選択済みだったが、帰国後すぐに進路変更して英米文学科を目指すことに決めたのである。元々、教師を志望していたので、国語教師から英語教師へと将来の希望も大きく変わることになった。

 このイギリス短期留学では、実は大失態をおかしている。当時、中高の親しい友人と日曜日にも会えるからという単純な理由で、日曜学校に通っていた。イギリス滞在中の日曜日にカンタベリーを訪れる機会があり、せっかくの貴重な機会なので英国国教会総本山であるカンタベリー大聖堂での礼拝に出てみたいと思ったのだった。日曜学校で礼拝に出席したことがあるから大丈夫、と楽観的に考えて出席したのだが、渡された日曜礼拝の式次に目を通してもよくわからない。宗派が異なれば、式次だって違うことを知らず、日本での自分のわずかな経験だけに頼って出席したばかりに、なんと献金と聖餐式(洗礼を受けた信者だけがパンと葡萄酒を口にする儀式)を間違えてしまったのであった。気づいた時には既に遅し…。いま思い出すだけでも顔から火が出そうだ。自分の英語力の低さと異文化理解に対する知識のなさを実感した。だが、この経験は授業で言葉と文化について語る時には役立っている(が、もちろん学生に、そして家族にもこの体験については語っていない!)。

 それなりの長い年月、教師として英語と関わってきたが、自分が理想とする英語のレベルには、なかなか思うように到達できないのが現実である。とはいえ、授業では音楽(歌)や映画を題材に扱うことも多く、自分が好きだった歌や感動した映画の台詞を紹介しながら、新しい教材を開拓している。「好きこそ物の上手なれ」。まだまだ修業の身。上手だとは自信をもって言えないが、好きでいることが継続のモチベーションになることは間違いないと思う。好きな英語と関わるオシゴトを続けていられることに感謝しながら、今後も英語の魅力を学生たちにもっと伝えていきたい。それが、学生たちが若いうちに体験を通して感性を磨くきっかけにつながって欲しいと願うばかりだ。

【プロフィール】石塚 美佳(いしづか みか)

東京工科大学教養学環教授。専門は英語教育学。
高等学校検定教科書(2009年~)、『Study Bear 中学2年編』(旺文社、2002年)、『英検準2級問題集』(旺文社、2005年)、『American Spirits in Movies -名作映画で学ぶアメリカの心』(成美堂、2010年)、『第二言語習得と英語科教育法』(開拓社、2013年)などの執筆に携わる。
趣味は舞台芸術鑑賞。

英語のオシゴトと私 第5回 ―島原一之
バックパッカーから予備校講師へ

2019年2月18日|英語のオシゴトと私

 「英語のオシゴトと私」というお題のリレーエッセイのバトンをいただいて、はて私のオシゴトは英語なのだろうかと戸惑ってしまう私は、英語を職業としている方たちの中では、やはり少し異端なのかもしれない。
 予備校で英語を教えはじめて早30余年。実に人生の半分以上の間、受験生相手に英語を教えることを生業としてきたのだから、なるほど英語は私のオシゴトなのだが、この仕事を自ら希望して選択したという自覚はない。
 大学卒業後はバックパッカーだった。1年の半分ほどを小学生相手の学習塾でつるかめ算やら和差算やらを教え、お金が貯まるとふらり残りの半年は東南アジアを放浪するという無鉄砲ででたらめな日々を数年間過ごした。こんな生き方がもしかしたら一生可能かもしれない、そんな錯覚もあったが、たまたまアルバイトのつもりで入った予備校が、全国規模の校舎展開を進めている時期で、私の仕事も何故かどんどん増えていき、とうとうバックパッカーどころではなくなり今日に至る。それが正直な実感である。
 バックドアからするりと入り込んでしまった英語稼業ではあるが、正門からこの稼業に入った方たちとはまったく違った形で、ある意味ユニークなキャリア形成ができたのではないかという自負もある。
 私は大学で英語学や英語教育法を学んだわけではない。受験生に英語をどのように教えたらいいのかは、多くの受験生と出会い、そしてネイティブスピーカーから貴重なアドバイスをいただきながら、手探りで探ってきたし、それは今も続いている。はじめてテキストの英作文の模範解答作成を依頼されたときのことだ。解答例のチェックをお願いした日本語が堪能なイギリス人に、漢字交じりの “Awkward, but 受験 is OK.” というコメントをいただいたときのあの複雑な気持ちは今もまざまざと覚えている。
 awkward なのはもちろん私の英語力不足が最大の原因なのだが、実はそれだけではなく、日本語と英語という全く異質の言語との間で等価な表現を求めようとする上での、時に非常に本質的な問題もはらんでいる。
 予備校が新聞に発表する大学入試問題の解答作成の場で、あるネイティブスピーカーとお互い熱くなってしまったやり取りも今となっては懐かしい。入試の英作文の日本語の一段落をそのまま英訳したつもりなのに、「これはパラグラフではない」と突っ返され、何度かの原稿の応酬の後、結局、英語と日本語という2つの言語の論理的構造の違いなのだと、はたと気づいたときはやはり虚を突かれる思いだった。
 日本語の段落とは異なり、英語のパラグラフは「文と文の間の強い結束性」、「パラグラフとしての論理的な一貫性」が必要である。文と文とが緩やかな繋がりしか持たないことが多い日本語の1つの段落を、そのまま和文英訳したところで、それは英語のパラグラフとしての論理性を持たないこともある。
「私は日本語は読めないが、あなたの説明を聞く限りこの文章は論理的ではない。従って英語にはならないので、解答不能と書くのが正解。」
噛み合わないやりとりに嫌気が差したそのネイティブスピーカーは、入試問題の日本文を、人差し指で苛立たしげに叩きながら興奮した口調でそうまくし立てたが、解答不能という解答は予備校講師には許されてはいない。

 今、日本の英語教育は大きな転換期を迎えている。2020年からはいよいよ小学校英語が教科としてスタートする。英語教育の改革が時代の要請であると積極的に推進を図る人たち、あまりに稚拙な早期英語教育の導入に懸念の声を上げる識者、どちらもそれなりに説得力のある主張を繰り広げているが、バックドアから英語稼業に入り込んできた私の目にはまったく別の光景が見えている。
 小学校に英語が導入されたのは2011年。移行期間はさらにその2年前から。つまりここ数年の予備校に来る高卒生の多くは小学英語の経験者ということになる。まず気になるのは彼らの字が下手になったこと、読みにくくなったことだ。
 私の世代の中学1年生の英語の授業は、四本線のペンマンシップのノートにABCをひたすら書くことから始まった。「英語に親しみ、英語を楽しむ」という理念の下で「話す」「聞く」活動から入る小学英語では、ペンマンシップのような面白みの欠ける単調な作業は軽視されているようだ。一方で、中学校では小学校ですでに英語を学びはじめているという前提で授業が進められるらしい。どうやらノートの罫線に沿ってまっすぐに英単語を綴るというトレーニングは小学校でも中学校でも不十分のようだ。
「小文字のaやcやeの下の部分がノートの罫線に触れるように、yやgやpは罫線の下につきだして書くこと。それからcomma とperiod は単語にぴたりと貼り付けて。改行して行頭にcomma を書いたらダメ」
難関大学の英作文の添削を求めてやってくる受験生に、まずはこうした指摘からしてやらないといけないというのは、やはりそれまでの8年間の英語教育に根本的な欠落部分があるということではないだろうか。
 基礎的な文法事項のミスも目に付く。英作文を書かせたときの三単現のsの脱落は本当に増えた。「主語」が「三人称」「単数」で時制が「現在形」の時に動詞の後ろにsを付けるという作業は、主語とは何か、人称とは何かについて、実はかなり抽象的なレベルでの認知を行っている。
 ある動作や行為の主が、「自分」ではなく、目の前にいる「おとうさん」「おかあさん」でもなく、今この場所にいない「誰か」である場合、動詞の終わりにsを発音するという知的操作を、英語を母語とする幼い子供たちは一体どんなふうに習得していくのか、子供たちの頭の中でどのような「学び」と「気づき」が行われているのか、私には想像すらつかないが、ともあれ、完全に日本語の環境の中で暮らしている日本の子供たちが、週何回かの英語の授業だけで、そうした抽象的認知に到達するためには、時代には逆行するが、やはりきちんとした文法指導が必要なのではないだろうか。

 外国語を習得するということは、相当の時間と努力が求められる地道な作業である。英語教育の未来について、立派ではあるが空疎な理念をぶつけ合う空中戦はそろそろやめにして、実際の英語教育のリアルな姿を、冷静に検証してみる必要があるのではないか。英語がオシゴトであることに未だ自覚的になれない私はそう思っている。

【プロフィール】島原 一之(しまばら かずゆき)

河合塾で30年以上にわたって英作文や英文読解を指導。河合塾内での模試や教材の作成のほか、高校英語の検定教科書『Vision Quest』の執筆にも携わっている。『オーレックス英和辞典 第2版新装版』のコラム「Boost Your Brain!」、『コアレックス英和辞典 第3版』中の「Get It Right!」を執筆。

英語のオシゴトと私 第4回 ―小林めぐみ
心のサプリ:多読と映画鑑賞と・・・

2018年11月21日|英語のオシゴトと私

大学で英語を教え始めて約20年になる。その間に、「どうやったら英語ができるようになりますか?」という質問を何度受けたことだろう。私が知っている限り、この方法がベストだ!というような無敵の勉強法は今のところ見つかっていない。ちまたには「3日でできる!」とか、「聞いているだけで英語が身につく」とか、魔法のような言葉も飛び交っているが、そんなに苦労せずに身につけられるなら、みんな今頃ペラペラになっているはずである。以前、とある先生が、英語をどのくらい勉強すればいいのか、ではなく、英語を身につけたいなら「できるようになるまでやるんだよ」とおっしゃっていたが、それを聞いて深くうなずいてしまった。結局どの程度自分が英語に向き合ったのかが問題なのだ。(もっとも私は常々楽して痩せる方法はないものかと思っているので、あまり人のことをとやかく言う資格はないが。)
 ただ、やり方次第、教師の工夫次第で変わる部分ももちろんある。普段の授業では、興味を持ってもらえそうな、中身の濃いコンテンツ(トピック)に加えて、使えそうな学習方法・スキルを伝授することと、実際に練習する場を設けることを心掛けているが、眠たそうな学生の姿を見かけるときももちろんある。そんなときは、学生を惹きつける話術があったらなあとよく思う。知り合いの先生はユーモアのセンスにあふれていて、同じ話をしてもなんだかおもしろくてつい聞いてしまう。私もマネできないかと思うが、これが難しい!
 ほかに私が苦手とすることはスペルを聴き取ることだ。アメリカの大学では、講義中先行研究が多々引用されるが、研究者の名前のスペリングも口頭で言ってくれることが多い。(例えばWeinreich, w-e-i-n, r-e-i, c-hというように。日本語だったら、「ウエダ」の書き方を植木の植えると田んぼの田です、とでも伝えているイメージだろうか。)けれども恥ずかしながらこれをきちんと聴き取れた試しがないのである。
 ユーモアのセンスも巧みな話術も(それから私にとってはスペリングの聴き取りも)、なかなか身につかないが、教師も何かしら努力を続けていることは大事だと思う。知り合いの英文学の先生は大変格調高い英語を話されるが、「僕はいまだに毎日欠かさず英文を声に出して読んでいます」とお聞きし、ますます尊敬するようになった。
 私の普段の英語力鍛錬はといえば、もっぱら趣味と実益を兼ねた多読と映画およびドラマ鑑賞だ。アカデミックな英語力向上には直結しないかもしれないが、簡単なgraded reader (レベル別多読用図書)や絵本を読んでも、意外とよい復習になる。例えば「乗り物に乗る」というとつい“ride”という動詞を思い浮かべるが、「ほら、乗って!」と言いたいときには“Ride!”というより“Get on!”を使う。そんな簡単だけど侮れない表現がちょくちょく出てくる。この頃はaudiobookも大活躍だ。Agatha ChristieのBBCラジオドラマやJeffrey Archerの作品、Stephen FryとBenedict Cumberbatchによる朗読など、以前に読んだ本を今度は聴きながら楽しんでいる。
 映画やドラマも、英語を学ぶ素材としても動機づけとしても使えると思う。好きなドラマが同じだと話も盛り上がるものだ(私のお気に入りはWhite CollarSuits Season 2まで)。映画やドラマを観ながら常に社会言語学やWorld Englishesのサンプルとして使えるネタはないかと探してしまうのはもはや職業病だが、映画やドラマ鑑賞はストレス解消にもなる。しかしドラマにはまってしまうと、いくら学習の一環と言い訳しても日々の仕事に支障をきたすので要注意である。
 最近は自分のキャパ以上の仕事を担当することになり、(ドラマを観る時間もなく!)重圧を感じていたのだが、尊敬するある先生が、そういうときは「ATMだよ」と励ましてくれた。銀行のautomated teller machineではなく、「明るく、楽しく、前向きに」という意味だそうだ。ふと気づけば、心に残る名言やおもしろいネタを提供してくれるすばらしい師匠たちが周囲にたくさんいた。もともと語学が好きなので多読も映画鑑賞も楽しいが、周りの先生方との交流や、学生が元気に授業に参加してくれる姿を見るのがやっぱりこの仕事を続ける一番のサプリである。感謝。

【プロフィール】小林 めぐみ(こばやし・めぐみ)
成蹊大学教授。ペンシルバニア大学卒業(社会言語学博士)。最近の著作に『社会人のための英語の世界ハンドブック』(大修館)などがある。

英語のオシゴトと私 第3回 ―山口美知代
サンドイッチの注文ができないとき

2018年9月25日|英語のオシゴトと私

 外国の店で食べ物を買おうとして、英語が聞き取れない、通じないという経験をした人は多いだろう。私もニューヨークのサンドイッチ店サブウェイで、尋ねられていることが聞き取れなくて何度も聞き返した。初めて海外に行った学生時代のことではない、つい一昨年のことである。「チーズ?」と聞かれているのだと最後にはわかったが、cheeseという簡単な単語が聞き取れなかったことに我ながら呆れた。特に癖のある発音だったわけではない。「ティー?」と聞こえて混乱したのだ。教壇に立つようになって二十余年。この期に及んでまだこういうことがあるのかと思った。やはり何事もシステムが理解できていないと聞き取れない、単語がわかっていてもだめ、などとその後もいろいろ考えた。折に触れ授業で言及してしまうような、自分としてはなかなか衝撃的な出来事だった。
 店頭でサンドイッチの注文ができなくて困る場面といえば、映画『マダム・イン・ニューヨーク』(2012)である。インド西部の都市プネーに住む主婦のシャシは英語が話せない。私立学校で英語による教育を受けている娘は、英語のできない母が保護者会に来ることを恥ずかしく思い、ビジネスマンの父に来てくれるように頼む。連邦公用語がヒンディー語、準公用語が英語であるインドにおいて、都市部のミドルクラスの家庭であっても、やはり英語が苦手な主婦もいるのだと、観客は引き込まれる。
 そんなシャシがニューヨークに住む姪の結婚式の準備を手伝うために、家族より前に単身渡米することになる。そして、昼食を買おうとしたマンハッタンの店で、店員に事細かに注文内容を尋ねられ、聞き取れず、話せずに立ち往生する。今年の2月、54歳で急逝したインドの人気女優シュリデヴィが、困ったように細かく首を振る仕草と、苛立ちを見せる女性店員の非協力的な様子が印象的な場面である。
 “What kind of filling do you want inside? Do you want cheese, tomatoes, lettuce?” “Huh?” “Lady, do you see, you’re holding up my line. This is not rocket science.”(字幕「中身はどうする? チーズ、トマト、レタス?」「え?」「ちょっと、後ろで人が待ってるの。簡単なことでしょ」)などと早口の英語にシャシが追い詰められていく様子には、何度見ても涙ぐみそうになる。
 この場面を大学の授業で見せて、感想を英語で書いてもらうことがある。総じて、英語非母語話者としての共感を綴る学生が多い。母語であれば簡単にできるやりとりが、外国語であるというだけで、聞き取れない、理解できない、恥をかく。こうした場面を見て、そこで直面する困惑と恥ずかしさ、そして英語が苦手な相手に向かってわかりやすく話そうともしない店員への怒りなどを覚えるのである。
 ところで、この夏、勤務する大学の提携校である中国の外国語大学で集中講義を行った。日本語学部大学院修士課程の2年生25名を対象に、日本人の英語に対する言語態度、英語を話す日本人の表象について日本語で話した。そのときに『マダム・イン・ニューヨーク』のこの場面も見てもらったのだが、そのあとの日本語作文を見て驚いた。「スマホの翻訳機能を使って対応すればいい」「スマホの辞書で調べて店員に見せればいい」「事前に食べ物、飲み物の英語表現を調べておくべき」という、問題解決型の内容が多かったのである。自分も英語や日本語を話すときに同じような経験をした、シャシが可哀そう、店員の態度はひどい、という感想もあったが、少数派だった。
 これだけのことで一般化はできないが、どうも日本の大学生の方が、英語が聞き取れない、話せないシャシへの感情移入の度合いが高いようである。英語が苦手ということをわが身に引き付けて受け止める傾向が強いともいえよう。私もその例に漏れない。そして、国をあげてのスピーキング力向上の掛け声が高まる昨今の入試改革についても、思いを巡らさずにはいられない。

山口先生

【プロフィール】山口 美知代(やまぐち・みちよ)
京都府立大学教授。専門は英語学・英語学史。『世界の英語を映画で学ぶ』(松柏社)、『英語の改良を夢みたイギリス人たち―綴り字改革運動史1834-1975』(開拓社)ほか。

英語のオシゴトと私 第2回 ―山﨑のぞみ
街へ出ずとも、教室に行けば・・

2018年6月26日|英語のオシゴトと私

 日本未公開だが、『教授と美女』 (Ball of Fire) (1941) という古いアメリカ映画がある。7人の専門家と共に百科事典を編纂している言語学教授が、ナイトクラブで知り合ったセクシーな歌手を仕事場に招き入れて、俗語の調査に協力してもらう話だ。俗世間を知らない野暮な教授が、清掃作業員や新聞配達少年ひいては酒場の歌姫に教えを乞うて、「生きた言葉」の収集に奮闘するところが面白い。もちろん、コメディタッチで描かれる、教授と美女の間に芽生える恋のゆくえも見逃せない。
 百科事典を作っているわけではないが、長年、教師をしていると、街へ繰り出さなくとも、学生を通じて俗語ならぬ新しい言葉に出合える。学生との年齢差が開くにつれて、その機会は一層増すようだ。「言葉は生き物のように変化するもの」「年長者が若者の言葉遣いに眉をひそめることは歴史の常」と頭では分かっていても、自分の「辞書」にはない表現や使い方に触れると、その異次元の感覚についつい眉根を寄せてしまう。
 もうかなり前になるが、肯定的意味で「やばい」が使われるのを目の当たりにして戸惑ったものだ。「先生、これやばいですよ」との教え子の言葉に、批判かと勘違いして一瞬身構えたが、「とても良い」というプラスの評価に使っていると分かって心底驚いた。さらに目を丸くしたのは、「え~、やばっ!」とあいづち表現として多用されているのを耳にしたときだ。昔、若者の間で何にでも「うそ~」と反応するのが流行ったが、年長者が「うそではありません」と真顔で答えていたのも同様の気持ちだったのか。
 また、自分のことを「私」ではなく名前で呼ぶ女子学生が増えていることにふと気づいた。「先生、サキ、出席足りてますか?」などと聞かれたときは、友達のことを代わりに尋ねているのかと思い、しばらく話がかみ合わなかったほどである。
 最近では、立て続けに複数の学生が「ほぼほぼ」と言っているのを聞いて、「ほぼほぼ?なぜ重ねる?」と違和感を覚えていたら、程なくテレビでも聞くようになり、小学生の息子も「宿題、ほぼほぼ終わった」などと使うようになり…。あれよあれよという間に、某辞書メーカーの2016年新語大賞に選ばれるほどの地位を得ていた。
 反対に、こちらが「○○が関の山」「目から鱗」などと言おうものなら、古語でも口にしているのかというような顔を学生にされる。だが、このような日本語の変化を話の糸口に、英語の使い方のあれこれを話すのも楽しいものだ。
 学生と日々接することで得られるのは、新鮮な言葉だけではない。暗い部屋にこもって事典編纂に明け暮れている映画の教授たちと違い、毎日の授業のお陰で、90分という時間の管理能力が鍛えられる。映画では、9年経っても百科事典が完成しないことに業を煮やした助成財団が、援助の打ち切りをほのめかす。ピンチに陥った教授は、「編集の遅れは世の中の変化のせいです」と厳かに言い放って煙に巻く。授業に追われ、短期的な研究成果が求められる忙しい現代からすれば、なんとも悠長でうらやましい話である。
 タイムマネジメントが要の授業では、教師は時計をにらみつつ、学生の進み具合を見つつ、やることを臨機応変に判断して90分を組み立てていく。チャイムと同時にうまく内容がまとまればしめたもの。終了時間は特に大事だ。昨今の学生の時間割は非常にタイトで授業が詰まっており、サービス精神から授業を延長しようものなら、「次の授業に間に合わない」とクレームが出る。
 一方、学生がチラチラ時計を見るのは「早く終わらないかな」と思っているからに違いない。多くはそうなのだろうが、授業評価アンケートに一度だけ「時間の使い方がうまい」と書かれたことがある。苦労に気づいてもらえたかとニンマリしていたら、別のアンケート用紙には「やることが多過ぎる」とのコメントも。一筋縄ではいかないのが授業だ。それでも学生にフレッシュな活力をもらいながら、今日も授業に励んでいる。

山崎先生

【プロフィール】山﨑 のぞみ(やまさき・のぞみ)
関西外国語大学准教授。専門は英語学。会話コーパスを使った英語の話し言葉研究に取り組んでいる。高校英語の検定教科書編集にも携わっている。英米のテレビドラマを見るのが楽しみ。

英語のオシゴトと私 第1回 ―野村恵造
He who can, does. He who cannot, teaches.

2018年4月16日|英語のオシゴトと私

 ああ耳が痛い。劇作家ジョージ・バーナード・ショーの寸鉄だ。「能ある者は自ら行う。能なき者は人に説く」。英語に当てはめると、「英語ができる人は、それを使ってバリバリ活躍する。できない人は、先生になる」!
 だが、教師も実際にやってみると気楽な稼業ではない。特に昨今は、大学もご多分に漏れず、教育・研究以外の仕事が半端ではない。スケジュール帳は会議の予定で埋まり、報告書や申請書の締め切りに追いかけられる。毎日がただただ忙しい。 

 もちろん、やりがいもある。例えば、ゼミの飲み会で学生と話していると、一丁前に自説を披歴する教え子の言葉の中に、野村印の言い回しを見出すことがある。心の中で「しめしめ」と思う。他人様の思考に影響を与えることができた証だ。「これは野村先生に教えてもらった」などと覚えていて欲しいわけではない。私だって習った先生の受け売りが多い。知識の伝授とはそういうことだ。
 卒論に取り掛かるゼミ生たちにこんな説法をする。「大学の4年間は、本当ならもう働ける年齢なのに、知的に遊びなさい、といって与えられた時間であり、卒論はその成果です。考えて、考えて、考えた後に、『わかった!』と思える瞬間があります。何が分かった? それは真理かもしれないし、人間かもしれない。その知的興奮を味わって卒業して行って下さい」。そして、まさにその「わかった!」の瞬間に、運よく立ち会えることがある。それこそ教師冥利に尽きるというものだ。近頃流行の「学生による授業評価アンケート」は、「いかに面白く、分かりやすく教えてくれるか」を問うが、甘くて咀嚼不要の離乳食ばかり与えられていては、「わかった!」という知的興奮を味わうことはできまい。
 留学の手伝いをした学生が一回り大きくなって帰ってくるのを見るのも、また嬉しい。前任校で20年ぶりに突然、研究室を訪ねてくれた女子学生がいた。米国の大学に転学し、やがて便りも途絶えたが、そのまま研究者となって彼の地で活躍しているとの由。すっかりオバサンになって、一瞬誰か分からなかったが、向こうもすっかりオジサンになった私に戸惑ったに違いない。英語を講ずる者にとっての一番の醍醐味は、そんなふうに学生の視界を外に向かって広げてやれることだろうか。自分が教えた英語を武器に活躍する教え子の姿を想像するだけで愉快ではないか。

 こう書きながら、自分が教師に向いているのか、実はいまだに自信がない。当時は文科系の大学院を出ると大学の教師になるのが当たり前の時代だったので、進路には悩まなかった。教職に就いてからも、迷い多き俗物ゆえ、「オニの野村」にも「ホトケの野村」にもなり切れていない。
 でも、一つだけ大切にしていることがある。それは、教師としての思いだ。永年、辞書や教科書の仕事に携わっているが、どんな時も自分が教師であることを忘れずにきた。辞書学や英語教育学の専門家でもない私が提供できるのは、幾ばくかの英語の知識と専門の英語学の知見、そして何よりも、教師である自分自身だ。教師として、これからの日本の英語学習者にはこういうことが必要だという思いがまずあり、それを縁あって関わることになった辞書や教科書の編集を通じて実現しようと努めてきたつもりだ。
 先日、教職志望の学生たちに話をする機会があった。最後は「教師は大変だけれども、やりがいのある仕事です。私自身、教師であったこの人生に悔いはありません。是非、挑戦して下さい」と締めくくった。「ただ、次の人生もやりたいかと聞かれたら、次は別の仕事でもいいかとは思いますが」。そんな時でもオチを付けないと気が済まないのは、関西人の性か。

野村先生

【プロフィール】野村 恵造(のむら・けいぞう)
『オーレックス英和辞典』『オーレックス和英辞典』『コアレックス英和辞典』編者。東京女子大学教授。専門は英語学。
辞書や検定教科書などの編集を通じて、理論的な研究の成果を英語教育に還元する方法を模索している。
The Japan News に“A Window on English” のコラムを連載中。

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