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英語のオシゴトと私 第5回 ―島原一之
バックパッカーから予備校講師へ

2019年2月18日|英語のオシゴトと私

 「英語のオシゴトと私」というお題のリレーエッセイのバトンをいただいて、はて私のオシゴトは英語なのだろうかと戸惑ってしまう私は、英語を職業としている方たちの中では、やはり少し異端なのかもしれない。
 予備校で英語を教えはじめて早30余年。実に人生の半分以上の間、受験生相手に英語を教えることを生業としてきたのだから、なるほど英語は私のオシゴトなのだが、この仕事を自ら希望して選択したという自覚はない。
 大学卒業後はバックパッカーだった。1年の半分ほどを小学生相手の学習塾でつるかめ算やら和差算やらを教え、お金が貯まるとふらり残りの半年は東南アジアを放浪するという無鉄砲ででたらめな日々を数年間過ごした。こんな生き方がもしかしたら一生可能かもしれない、そんな錯覚もあったが、たまたまアルバイトのつもりで入った予備校が、全国規模の校舎展開を進めている時期で、私の仕事も何故かどんどん増えていき、とうとうバックパッカーどころではなくなり今日に至る。それが正直な実感である。
 バックドアからするりと入り込んでしまった英語稼業ではあるが、正門からこの稼業に入った方たちとはまったく違った形で、ある意味ユニークなキャリア形成ができたのではないかという自負もある。
 私は大学で英語学や英語教育法を学んだわけではない。受験生に英語をどのように教えたらいいのかは、多くの受験生と出会い、そしてネイティブスピーカーから貴重なアドバイスをいただきながら、手探りで探ってきたし、それは今も続いている。はじめてテキストの英作文の模範解答作成を依頼されたときのことだ。解答例のチェックをお願いした日本語が堪能なイギリス人に、漢字交じりの “Awkward, but 受験 is OK.” というコメントをいただいたときのあの複雑な気持ちは今もまざまざと覚えている。
 awkward なのはもちろん私の英語力不足が最大の原因なのだが、実はそれだけではなく、日本語と英語という全く異質の言語との間で等価な表現を求めようとする上での、時に非常に本質的な問題もはらんでいる。
 予備校が新聞に発表する大学入試問題の解答作成の場で、あるネイティブスピーカーとお互い熱くなってしまったやり取りも今となっては懐かしい。入試の英作文の日本語の一段落をそのまま英訳したつもりなのに、「これはパラグラフではない」と突っ返され、何度かの原稿の応酬の後、結局、英語と日本語という2つの言語の論理的構造の違いなのだと、はたと気づいたときはやはり虚を突かれる思いだった。
 日本語の段落とは異なり、英語のパラグラフは「文と文の間の強い結束性」、「パラグラフとしての論理的な一貫性」が必要である。文と文とが緩やかな繋がりしか持たないことが多い日本語の1つの段落を、そのまま和文英訳したところで、それは英語のパラグラフとしての論理性を持たないこともある。
「私は日本語は読めないが、あなたの説明を聞く限りこの文章は論理的ではない。従って英語にはならないので、解答不能と書くのが正解。」
噛み合わないやりとりに嫌気が差したそのネイティブスピーカーは、入試問題の日本文を、人差し指で苛立たしげに叩きながら興奮した口調でそうまくし立てたが、解答不能という解答は予備校講師には許されてはいない。

 今、日本の英語教育は大きな転換期を迎えている。2020年からはいよいよ小学校英語が教科としてスタートする。英語教育の改革が時代の要請であると積極的に推進を図る人たち、あまりに稚拙な早期英語教育の導入に懸念の声を上げる識者、どちらもそれなりに説得力のある主張を繰り広げているが、バックドアから英語稼業に入り込んできた私の目にはまったく別の光景が見えている。
 小学校に英語が導入されたのは2011年。移行期間はさらにその2年前から。つまりここ数年の予備校に来る高卒生の多くは小学英語の経験者ということになる。まず気になるのは彼らの字が下手になったこと、読みにくくなったことだ。
 私の世代の中学1年生の英語の授業は、四本線のペンマンシップのノートにABCをひたすら書くことから始まった。「英語に親しみ、英語を楽しむ」という理念の下で「話す」「聞く」活動から入る小学英語では、ペンマンシップのような面白みの欠ける単調な作業は軽視されているようだ。一方で、中学校では小学校ですでに英語を学びはじめているという前提で授業が進められるらしい。どうやらノートの罫線に沿ってまっすぐに英単語を綴るというトレーニングは小学校でも中学校でも不十分のようだ。
「小文字のaやcやeの下の部分がノートの罫線に触れるように、yやgやpは罫線の下につきだして書くこと。それからcomma とperiod は単語にぴたりと貼り付けて。改行して行頭にcomma を書いたらダメ」
難関大学の英作文の添削を求めてやってくる受験生に、まずはこうした指摘からしてやらないといけないというのは、やはりそれまでの8年間の英語教育に根本的な欠落部分があるということではないだろうか。
 基礎的な文法事項のミスも目に付く。英作文を書かせたときの三単現のsの脱落は本当に増えた。「主語」が「三人称」「単数」で時制が「現在形」の時に動詞の後ろにsを付けるという作業は、主語とは何か、人称とは何かについて、実はかなり抽象的なレベルでの認知を行っている。
 ある動作や行為の主が、「自分」ではなく、目の前にいる「おとうさん」「おかあさん」でもなく、今この場所にいない「誰か」である場合、動詞の終わりにsを発音するという知的操作を、英語を母語とする幼い子供たちは一体どんなふうに習得していくのか、子供たちの頭の中でどのような「学び」と「気づき」が行われているのか、私には想像すらつかないが、ともあれ、完全に日本語の環境の中で暮らしている日本の子供たちが、週何回かの英語の授業だけで、そうした抽象的認知に到達するためには、時代には逆行するが、やはりきちんとした文法指導が必要なのではないだろうか。

 外国語を習得するということは、相当の時間と努力が求められる地道な作業である。英語教育の未来について、立派ではあるが空疎な理念をぶつけ合う空中戦はそろそろやめにして、実際の英語教育のリアルな姿を、冷静に検証してみる必要があるのではないか。英語がオシゴトであることに未だ自覚的になれない私はそう思っている。



【プロフィール】島原 一之(しまばら かずゆき)

河合塾で30年以上にわたって英作文や英文読解を指導。河合塾内での模試や教材の作成のほか、高校英語の検定教科書『Vision Quest』の執筆にも携わっている。『オーレックス英和辞典 第2版新装版』のコラム「Boost Your Brain!」、『コアレックス英和辞典 第3版』中の「Get It Right!」を執筆。

 

 

英語のオシゴトと私 第4回 ―小林めぐみ
心のサプリ:多読と映画鑑賞と・・・

2018年11月21日|英語のオシゴトと私

 大学で英語を教え始めて約20年になる。その間に、「どうやったら英語ができるようになりますか?」という質問を何度受けたことだろう。私が知っている限り、この方法がベストだ!というような無敵の勉強法は今のところ見つかっていない。ちまたには「3日でできる!」とか、「聞いているだけで英語が身につく」とか、魔法のような言葉も飛び交っているが、そんなに苦労せずに身につけられるなら、みんな今頃ペラペラになっているはずである。以前、とある先生が、英語をどのくらい勉強すればいいのか、ではなく、英語を身につけたいなら「できるようになるまでやるんだよ」とおっしゃっていたが、それを聞いて深くうなずいてしまった。結局どの程度自分が英語に向き合ったのかが問題なのだ。(もっとも私は常々楽して痩せる方法はないものかと思っているので、あまり人のことをとやかく言う資格はないが。)
 ただ、やり方次第、教師の工夫次第で変わる部分ももちろんある。普段の授業では、興味を持ってもらえそうな、中身の濃いコンテンツ(トピック)に加えて、使えそうな学習方法・スキルを伝授することと、実際に練習する場を設けることを心掛けているが、眠たそうな学生の姿を見かけるときももちろんある。そんなときは、学生を惹きつける話術があったらなあとよく思う。知り合いの先生はユーモアのセンスにあふれていて、同じ話をしてもなんだかおもしろくてつい聞いてしまう。私もマネできないかと思うが、これが難しい!
 ほかに私が苦手とすることはスペルを聴き取ることだ。アメリカの大学では、講義中先行研究が多々引用されるが、研究者の名前のスペリングも口頭で言ってくれることが多い。(例えばWeinreich, w-e-i-n, r-e-i, c-hというように。日本語だったら、「ウエダ」の書き方を植木の植えると田んぼの田です、とでも伝えているイメージだろうか。)けれども恥ずかしながらこれをきちんと聴き取れた試しがないのである。
 ユーモアのセンスも巧みな話術も(それから私にとってはスペリングの聴き取りも)、なかなか身につかないが、教師も何かしら努力を続けていることは大事だと思う。知り合いの英文学の先生は大変格調高い英語を話されるが、「僕はいまだに毎日欠かさず英文を声に出して読んでいます」とお聞きし、ますます尊敬するようになった。
 私の普段の英語力鍛錬はといえば、もっぱら趣味と実益を兼ねた多読と映画およびドラマ鑑賞だ。アカデミックな英語力向上には直結しないかもしれないが、簡単なgraded reader (レベル別多読用図書)や絵本を読んでも、意外とよい復習になる。例えば「乗り物に乗る」というとつい“ride”という動詞を思い浮かべるが、「ほら、乗って!」と言いたいときには“Ride!”というより“Get on!”を使う。そんな簡単だけど侮れない表現がちょくちょく出てくる。この頃はaudiobookも大活躍だ。Agatha ChristieのBBCラジオドラマやJeffrey Archerの作品、Stephen FryとBenedict Cumberbatchによる朗読など、以前に読んだ本を今度は聴きながら楽しんでいる。
 映画やドラマも、英語を学ぶ素材としても動機づけとしても使えると思う。好きなドラマが同じだと話も盛り上がるものだ(私のお気に入りはWhite CollarSuits Season 2まで)。映画やドラマを観ながら常に社会言語学やWorld Englishesのサンプルとして使えるネタはないかと探してしまうのはもはや職業病だが、映画やドラマ鑑賞はストレス解消にもなる。しかしドラマにはまってしまうと、いくら学習の一環と言い訳しても日々の仕事に支障をきたすので要注意である。
 最近は自分のキャパ以上の仕事を担当することになり、(ドラマを観る時間もなく!)重圧を感じていたのだが、尊敬するある先生が、そういうときは「ATMだよ」と励ましてくれた。銀行のautomated teller machineではなく、「明るく、楽しく、前向きに」という意味だそうだ。ふと気づけば、心に残る名言やおもしろいネタを提供してくれるすばらしい師匠たちが周囲にたくさんいた。もともと語学が好きなので多読も映画鑑賞も楽しいが、周りの先生方との交流や、学生が元気に授業に参加してくれる姿を見るのがやっぱりこの仕事を続ける一番のサプリである。感謝。

【プロフィール】小林 めぐみ(こばやし・めぐみ)
成蹊大学教授。ペンシルバニア大学卒業(社会言語学博士)。最近の著作に『社会人のための英語の世界ハンドブック』(大修館)などがある。

英語のオシゴトと私 第3回 ―山口美知代
サンドイッチの注文ができないとき

2018年9月25日|英語のオシゴトと私

 外国の店で食べ物を買おうとして、英語が聞き取れない、通じないという経験をした人は多いだろう。私もニューヨークのサンドイッチ店サブウェイで、尋ねられていることが聞き取れなくて何度も聞き返した。初めて海外に行った学生時代のことではない、つい一昨年のことである。「チーズ?」と聞かれているのだと最後にはわかったが、cheeseという簡単な単語が聞き取れなかったことに我ながら呆れた。特に癖のある発音だったわけではない。「ティー?」と聞こえて混乱したのだ。教壇に立つようになって二十余年。この期に及んでまだこういうことがあるのかと思った。やはり何事もシステムが理解できていないと聞き取れない、単語がわかっていてもだめ、などとその後もいろいろ考えた。折に触れ授業で言及してしまうような、自分としてはなかなか衝撃的な出来事だった。
 店頭でサンドイッチの注文ができなくて困る場面といえば、映画『マダム・イン・ニューヨーク』(2012)である。インド西部の都市プネーに住む主婦のシャシは英語が話せない。私立学校で英語による教育を受けている娘は、英語のできない母が保護者会に来ることを恥ずかしく思い、ビジネスマンの父に来てくれるように頼む。連邦公用語がヒンディー語、準公用語が英語であるインドにおいて、都市部のミドルクラスの家庭であっても、やはり英語が苦手な主婦もいるのだと、観客は引き込まれる。
 そんなシャシがニューヨークに住む姪の結婚式の準備を手伝うために、家族より前に単身渡米することになる。そして、昼食を買おうとしたマンハッタンの店で、店員に事細かに注文内容を尋ねられ、聞き取れず、話せずに立ち往生する。今年の2月、54歳で急逝したインドの人気女優シュリデヴィが、困ったように細かく首を振る仕草と、苛立ちを見せる女性店員の非協力的な様子が印象的な場面である。
 “What kind of filling do you want inside? Do you want cheese, tomatoes, lettuce?” “Huh?” “Lady, do you see, you’re holding up my line. This is not rocket science.”(字幕「中身はどうする? チーズ、トマト、レタス?」「え?」「ちょっと、後ろで人が待ってるの。簡単なことでしょ」)などと早口の英語にシャシが追い詰められていく様子には、何度見ても涙ぐみそうになる。
 この場面を大学の授業で見せて、感想を英語で書いてもらうことがある。総じて、英語非母語話者としての共感を綴る学生が多い。母語であれば簡単にできるやりとりが、外国語であるというだけで、聞き取れない、理解できない、恥をかく。こうした場面を見て、そこで直面する困惑と恥ずかしさ、そして英語が苦手な相手に向かってわかりやすく話そうともしない店員への怒りなどを覚えるのである。
 ところで、この夏、勤務する大学の提携校である中国の外国語大学で集中講義を行った。日本語学部大学院修士課程の2年生25名を対象に、日本人の英語に対する言語態度、英語を話す日本人の表象について日本語で話した。そのときに『マダム・イン・ニューヨーク』のこの場面も見てもらったのだが、そのあとの日本語作文を見て驚いた。「スマホの翻訳機能を使って対応すればいい」「スマホの辞書で調べて店員に見せればいい」「事前に食べ物、飲み物の英語表現を調べておくべき」という、問題解決型の内容が多かったのである。自分も英語や日本語を話すときに同じような経験をした、シャシが可哀そう、店員の態度はひどい、という感想もあったが、少数派だった。
 これだけのことで一般化はできないが、どうも日本の大学生の方が、英語が聞き取れない、話せないシャシへの感情移入の度合いが高いようである。英語が苦手ということをわが身に引き付けて受け止める傾向が強いともいえよう。私もその例に漏れない。そして、国をあげてのスピーキング力向上の掛け声が高まる昨今の入試改革についても、思いを巡らさずにはいられない。
 
 
山口先生【プロフィール】山口 美知代(やまぐち・みちよ)
京都府立大学教授。専門は英語学・英語学史。『世界の英語を映画で学ぶ』(松柏社)、『英語の改良を夢みたイギリス人たち―綴り字改革運動史1834-1975』(開拓社)ほか。