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「京のぶぶづけ」の言語学―語用論と社会言語学の接点― ――野村恵造

 京都では、訪問先のお宅を辞するときに、「まあ、ぶぶづけ(お茶漬け)でも一杯どうどす」と勧められても座り直してはいけない。単なるお愛想なのだから固辞するのが“お約束”。帰るそぶりを見せていないのに言われた場合は、帰宅を促す合図と心得るべし。その真意が察知できない者は、「やぼなお人やわ」と末代まで笑い物になる――。
 実際には、京都人である私自身、そんな場面に出くわしたことはなく、「ぶぶづけ」も死語に近いので、この習わしはもはや“都市伝説”と言えるかもしれない(少なくとも拙宅にお招きした時はそんな深読みはご無用)。しかし、そこまで極端でなくても、嫌味なまでの“持って回った言い方”はしばしば耳にしたし、東京に来て20年になるが、しばらく“東国(あずまのくに)”の直截的な物言いに違和感があったことも確かだ。

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 方言の“らしさ”は、特有の発音や語彙、文法だけでは説明がつかない。このような“言葉を用いた振る舞い”にも方言ごとの特徴があるからだ。英語の二大方言であるアメリカ英語とイギリス英語もまたしかり。旅行作家のビル・ブライソンが言うように“almost every Briton learns on his first day in America”(ほとんどのイギリス人がアメリカに足を下ろしたとたんに思い知る)のだが、なまじ英語を話す者同士という意識がある分、かえって始末が悪い。
 イギリス人はなかなか打ち解けようとせず(reserved)、感情の表出もストレートではないと言われる。控えめな表現(understatement)が発達し、お得意のユーモアも毒をオブラートに包むための方便と考えれば納得がいく。
 それに対して、アメリカ人は人なつっこくて(friendly)、回りくどいことも嫌いだ。異文化コミュニケーションの専門家パトリック・シュミットの見立てによると、“Americans are more direct than the British when it comes to expressing pleasure, giving compliments freely or revealing personal details to people they don’t know well.”(アメリカ人は、イギリス人と違って、喜びや賛辞を派手に表現するし、知らない相手にだって平気で個人情報を教える)。
 もちろんアメリカ人といっても一様ではないが、社会人類学者のケイト・フォックスがいう“brash American approach”(せっかちなアメリカ式接近法)はつとに知られている。初対面のアメリカ人に、満面の笑みで“Hi! I’m Bill from Iowa.”(やあ、オレ、アイオワから来たビル)などと言いながら握手を求められてたじろぐイギリス人を容易に想像することができる。

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 異なる方言の“言葉を用いた振る舞い”を比較した実証的な研究はまだ少ないが、英米差に関する調査を二つばかり紹介しておこう。
 It’s a nice day, isn’t it? やHe didn’t come, did he? などの付加疑問(tag-question)は、「……だ」と言い切らずに、相手に事実を確認したり同意を求めたりする形式だが、英語学者グンネル・トティらの研究によると、英では米のおよそ9倍の頻度で出現する。イギリス人が付加疑問を多用するのは、断定を避けて柔らかく表現することを好むためと考えられるが、他方、「少ないながらも米で付加疑問が用いられる場合、その半分が、確認を求めるというより、会話を仕向けるためのきっかけとしての用法だった(英では約3割)」という分析結果は、積極的に話しかけるアメリカ人的特徴の表れと解釈することができる。
 もう一つ。かつては単なる無駄話とされてきた“small talk”(親睦のためのちょっとした会話)は、近年、それらが果たす人間関係を築くための機能が見直されているが、語用論(pragmatics)学者のクラウス・シュナイダーが行った調査は、パーティーでの出会いの場面で行う若者の会話にも英米差が存在することを検証している。英では挨拶のやり取りから少しずつ段階を踏むが、最後まで互いの素性を明かさずじまいのことさえあるのに対して、米ではいきなり自分の名前を名乗り、そのことによって相手にも同じことを求めるパターンが多かった。つまり、英ではHi. ― Hi.、米ではHi. My name is Nick. (What’s yours?) ― (Hi.) I’m Kate. が典型的な会話の始め方だと言える。

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 これらの英米差は、語用論でいう“配慮(politeness)”の概念で、ある程度説明がつく。人は誰でも消極的に「縄張りを犯されたくない、邪魔されたくない」と思う一方で、積極的に「評価されたい、アプローチされたい」とも願う存在だが、どちらの欲求を尊重するかは文化によって異なり、前者に配慮するのが英、後者に配慮するのが米、ということになる。
 社会言語学者のデボラ・タネンは、「イギリス人はホントに失礼な国民だわ」と憤慨するアメリカ人観光客のエピソードを紹介している。彼女がカフェのボックス席でくつろいでいると、イギリス人が黙って向かいの席に座る、というようなことが度々あった。「アメリカだったら、Do you mind if I sit down?(座ってもいいですか)でも、Is anyone sitting here?(誰か座っていますか)でも、とにかく一声かけてから座るのに!」――。
 だが、イギリス人にも彼らなりの論理がある。相手の存在に気づいていることを示す(acknowledge)のがアメリカ流の配慮かもしれないが、イギリス人は、空席であることが明らかなのに、わざわざ確認の質問をすることによって返事を無理強いするほうが配慮に欠けると考える。表し方が違うだけで、どちらも相手に配慮しているのだが、そのアメリカ人は、自分たちのとは違った流儀がありうることに思いが至らなかったわけだ。
 戦後の日本の英語教育ではアメリカ英語が優先されている。学習者に目標として提示される“英語らしさ”は実質的に“アメリカ英語らしさ”であり、その中には、アメリカ英語に特徴的な発音や語彙、文法に加えて、“アメリカ英語らしい振る舞い”が暗黙のうちに含まれている。
 しかし、そもそも英語自体が、あまたある言語の一つでしかないが、アメリカ英語はさらにその中の一つの特殊な方言にすぎない。世界の英語の現状を考えると、英語を均質のものととらえ、学習のモデルとしてアメリカ人母語話者だけを想定する見方は、もはや時代錯誤だとさえ言えるが、日本の英語教育の現場では、“アメリカ英語的な振る舞い”を普遍的なコミュニケーションのスタイルと錯覚する危険性が常に潜んでいるように思える。

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 「リレー・エッセイ」向けの原稿とするにはいささか堅い内容になったが、私自身の関心分野である、人間関係に配慮した“言葉を用いた振る舞い”を研究する語用論と、地域、階級、民族性、ジェンダー、年齢などに対応する“言葉の変異”を扱う社会言語学(sociolinguistics)の交わるところを少し紹介させて頂いた。
 私も今では京都弁と共通語のほぼ完璧なバイリンガル(!)になったと自負しているが、しかし、それは発音や語彙どまりであって、“言葉を用いた振る舞い”は依然として京都人のままだ。語用論は自身のアイデンティティと分かち難いようだ。

*本稿は2010年6月15日付 The Daily Yomiuri 紙掲載の A Window on English (vol.14)を一部改稿したものです。

【プロフィール】野村 恵造(のむら・けいぞう)
『オーレックス英和辞典』『オーレックス和英辞典』『コアレックス英和辞典』編者。東京外国語大学大学院准教授。英語学(語用論、社会言語学)。
辞書や検定教科書などの編集を通じて、理論的な研究の成果を英語教育に還元する方法を模索している。
The Daily Yomiuri に“A Window on English” のコラムを連載中。

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