OLEXブログ

英語のオシゴトと私 第2回 ――山﨑のぞみ              街へ出ずとも、教室に行けば・・・

2018年6月26日|英語のオシゴトと私

 日本未公開だが、『教授と美女』 (Ball of Fire) (1941) という古いアメリカ映画がある。7人の専門家と共に百科事典を編纂している言語学教授が、ナイトクラブで知り合ったセクシーな歌手を仕事場に招き入れて、俗語の調査に協力してもらう話だ。俗世間を知らない野暮な教授が、清掃作業員や新聞配達少年ひいては酒場の歌姫に教えを乞うて、「生きた言葉」の収集に奮闘するところが面白い。もちろん、コメディタッチで描かれる、教授と美女の間に芽生える恋のゆくえも見逃せない。
 百科事典を作っているわけではないが、長年、教師をしていると、街へ繰り出さなくとも、学生を通じて俗語ならぬ新しい言葉に出合える。学生との年齢差が開くにつれて、その機会は一層増すようだ。「言葉は生き物のように変化するもの」「年長者が若者の言葉遣いに眉をひそめることは歴史の常」と頭では分かっていても、自分の「辞書」にはない表現や使い方に触れると、その異次元の感覚についつい眉根を寄せてしまう。
 もうかなり前になるが、肯定的意味で「やばい」が使われるのを目の当たりにして戸惑ったものだ。「先生、これやばいですよ」との教え子の言葉に、批判かと勘違いして一瞬身構えたが、「とても良い」というプラスの評価に使っていると分かって心底驚いた。さらに目を丸くしたのは、「え~、やばっ!」とあいづち表現として多用されているのを耳にしたときだ。昔、若者の間で何にでも「うそ~」と反応するのが流行ったが、年長者が「うそではありません」と真顔で答えていたのも同様の気持ちだったのか。
 また、自分のことを「私」ではなく名前で呼ぶ女子学生が増えていることにふと気づいた。「先生、サキ、出席足りてますか?」などと聞かれたときは、友達のことを代わりに尋ねているのかと思い、しばらく話がかみ合わなかったほどである。
 最近では、立て続けに複数の学生が「ほぼほぼ」と言っているのを聞いて、「ほぼほぼ?なぜ重ねる?」と違和感を覚えていたら、程なくテレビでも聞くようになり、小学生の息子も「宿題、ほぼほぼ終わった」などと使うようになり…。あれよあれよという間に、某辞書メーカーの2016年新語大賞に選ばれるほどの地位を得ていた。
 反対に、こちらが「○○が関の山」「目から鱗」などと言おうものなら、古語でも口にしているのかというような顔を学生にされる。だが、このような日本語の変化を話の糸口に、英語の使い方のあれこれを話すのも楽しいものだ。
 学生と日々接することで得られるのは、新鮮な言葉だけではない。暗い部屋にこもって事典編纂に明け暮れている映画の教授たちと違い、毎日の授業のお陰で、90分という時間の管理能力が鍛えられる。映画では、9年経っても百科事典が完成しないことに業を煮やした助成財団が、援助の打ち切りをほのめかす。ピンチに陥った教授は、「編集の遅れは世の中の変化のせいです」と厳かに言い放って煙に巻く。授業に追われ、短期的な研究成果が求められる忙しい現代からすれば、なんとも悠長でうらやましい話である。
 タイムマネジメントが要の授業では、教師は時計をにらみつつ、学生の進み具合を見つつ、やることを臨機応変に判断して90分を組み立てていく。チャイムと同時にうまく内容がまとまればしめたもの。終了時間は特に大事だ。昨今の学生の時間割は非常にタイトで授業が詰まっており、サービス精神から授業を延長しようものなら、「次の授業に間に合わない」とクレームが出る。
 一方、学生がチラチラ時計を見るのは「早く終わらないかな」と思っているからに違いない。多くはそうなのだろうが、授業評価アンケートに一度だけ「時間の使い方がうまい」と書かれたことがある。苦労に気づいてもらえたかとニンマリしていたら、別のアンケート用紙には「やることが多過ぎる」とのコメントも。一筋縄ではいかないのが授業だ。それでも学生にフレッシュな活力をもらいながら、今日も授業に励んでいる。
 
 
山崎先生【プロフィール】山﨑のぞみ(やまさき・のぞみ)
関西外国語大学准教授。専門は英語学。会話コーパスを使った英語の話し言葉研究に取り組んでいる。高校英語の検定教科書編集にも携わっている。英米のテレビドラマを見るのが楽しみ。

英語のオシゴトと私 第1回 ――野村恵造               He who can, does. He who cannot, teaches.

2018年4月16日|英語のオシゴトと私

 ああ耳が痛い。劇作家ジョージ・バーナード・ショーの寸鉄だ。「能ある者は自ら行う。能なき者は人に説く」。英語に当てはめると、「英語ができる人は、それを使ってバリバリ活躍する。できない人は、先生になる」!
 だが、教師も実際にやってみると気楽な稼業ではない。特に昨今は、大学もご多分に漏れず、教育・研究以外の仕事が半端ではない。スケジュール帳は会議の予定で埋まり、報告書や申請書の締め切りに追いかけられる。毎日がただただ忙しい。 

 もちろん、やりがいもある。例えば、ゼミの飲み会で学生と話していると、一丁前に自説を披歴する教え子の言葉の中に、野村印の言い回しを見出すことがある。心の中で「しめしめ」と思う。他人様の思考に影響を与えることができた証だ。「これは野村先生に教えてもらった」などと覚えていて欲しいわけではない。私だって習った先生の受け売りが多い。知識の伝授とはそういうことだ。
 卒論に取り掛かるゼミ生たちにこんな説法をする。「大学の4年間は、本当ならもう働ける年齢なのに、知的に遊びなさい、といって与えられた時間であり、卒論はその成果です。考えて、考えて、考えた後に、『わかった!』と思える瞬間があります。何が分かった? それは真理かもしれないし、人間かもしれない。その知的興奮を味わって卒業して行って下さい」。そして、まさにその「わかった!」の瞬間に、運よく立ち会えることがある。それこそ教師冥利に尽きるというものだ。近頃流行の「学生による授業評価アンケート」は、「いかに面白く、分かりやすく教えてくれるか」を問うが、甘くて咀嚼不要の離乳食ばかり与えられていては、「わかった!」という知的興奮を味わうことはできまい。
 留学の手伝いをした学生が一回り大きくなって帰ってくるのを見るのも、また嬉しい。前任校で20年ぶりに突然、研究室を訪ねてくれた女子学生がいた。米国の大学に転学し、やがて便りも途絶えたが、そのまま研究者となって彼の地で活躍しているとの由。すっかりオバサンになって、一瞬誰か分からなかったが、向こうもすっかりオジサンになった私に戸惑ったに違いない。英語を講ずる者にとっての一番の醍醐味は、そんなふうに学生の視界を外に向かって広げてやれることだろうか。自分が教えた英語を武器に活躍する教え子の姿を想像するだけで愉快ではないか。

 こう書きながら、自分が教師に向いているのか、実はいまだに自信がない。当時は文科系の大学院を出ると大学の教師になるのが当たり前の時代だったので、進路には悩まなかった。教職に就いてからも、迷い多き俗物ゆえ、「オニの野村」にも「ホトケの野村」にもなり切れていない。
 でも、一つだけ大切にしていることがある。それは、教師としての思いだ。永年、辞書や教科書の仕事に携わっているが、どんな時も自分が教師であることを忘れずにきた。辞書学や英語教育学の専門家でもない私が提供できるのは、幾ばくかの英語の知識と専門の英語学の知見、そして何よりも、教師である自分自身だ。教師として、これからの日本の英語学習者にはこういうことが必要だという思いがまずあり、それを縁あって関わることになった辞書や教科書の編集を通じて実現しようと努めてきたつもりだ。
 先日、教職志望の学生たちに話をする機会があった。最後は「教師は大変だけれども、やりがいのある仕事です。私自身、教師であったこの人生に悔いはありません。是非、挑戦して下さい」と締めくくった。「ただ、次の人生もやりたいかと聞かれたら、次は別の仕事でもいいかとは思いますが」。そんな時でもオチを付けないと気が済まないのは、関西人の性か。
 
 
野村先生【プロフィール】野村 恵造(のむら・けいぞう)
『オーレックス英和辞典』『オーレックス和英辞典』『コアレックス英和辞典』編者。東京女子大学教授。専門は英語学。
辞書や検定教科書などの編集を通じて、理論的な研究の成果を英語教育に還元する方法を模索している。
The Japan News に“A Window on English” のコラムを連載中。